こんにちは!yurinです。
今年の始まりの古代史日和勉強会は、市川達也先生による「藤原不比等(ふじわらのふひと)」でした。
日本の歴史の礎(いしずえ)を築いた大人物ですが、乙巳(いっし)の変を主導した父の藤原鎌足(ふじわらのかまたり)よりも、業績は知られていないのではないでしょうか?
古典資料を丹念にひもときながら、藤原不比等(ふじわらのふひと)の実像に迫っていただきました。やはり歴史は「人」が面白い!
目次
持統天皇の流れの政権を支える
後の第38代天智天皇となる中大兄皇子のブレーンとして、蘇我氏の専横をストップさせた乙巳(いっし)の変の陰の立役者となった藤原鎌足(614~669年)。
晩年に、天智天皇から大織冠(だいしょっかん)の官位と、藤原の姓を賜りました。
その鎌足の子が藤原不比等(659~720)です。
天智天皇の近江朝を引き継いだ大友皇子(第39代弘文天皇)は、壬申の乱(672年)で大海人皇子に敗れ、第40代天武天皇が即位しました。
その天武天皇の時代、不比等はひっそりと目立たない人生を送っていたようで、史書に登場しません。
686年に天武天皇が崩御して、持統天皇の称制(先帝の皇子や皇后が政務をとること)を経て、690年に第42代持統天皇が即位します。
いよいよ不比等が表舞台に登場することになります。
持統天皇の即位の直前に、藤原不比等は「黒作懸佩刀(くろつくりのかきはきのたち)」を下賜されます。
この太刀は、正倉院の宝物になっています。
(天武天皇と持統天皇の皇子)草壁皇子 → 不比等 → 第42代文武天皇 → 不比等 → 第45代聖武天皇
と渡り継がれます。
途中の第43代元明天皇・第44代元正天皇のお二人の女帝には、授けられていません。
不比等は「持統流の皇位継承の後見人」であったといえるでしょう。
この時代は女帝が目立つのですが、その実質的に政務を取り仕切っていたとみられる人物が、不比等だったのでした!
春日局のような不比等の妻県犬養三千代(あがたのいぬかいみちよ)
藤原不比等を語るのに、決して忘れてならないのは、妻となった県犬養三千代(あがたのいぬかいみちよ、665~733年)です。
夫婦二人三脚で、表の政務を取り仕切ったのが不比等で、奥向きを仕切ったのが三千代でした。
後の江戸城大奥を取り仕切った春日局と重なります^^
三千代は、不比等と再婚でした!
父の県犬養東人(あがたのいぬかいあずまひと)は、壬申の乱で活躍しました。
三千代は、第30代敏達天皇系譜の美努王に嫁ぎ、葛城王、佐為王、牟漏女王を生みます。
この先夫の子どもたちが天皇家を支えるような状況も春日局を想起します。
すなわち葛城王誕生と同時期に軽皇子(かるのみこ、文武天皇)の乳母となり、後宮での力を増します。
そして694年ころ美努王と離別して、不比等の後妻となりました。
安宿媛(あすかべひめ)、つまり後の光明皇后ほか一子をもうけました。
元明天皇から「橘」の姓を賜りました。
先夫の子の葛城王は、臣籍降下し橘諸兄(たちばなのもろえ)となり、後に不比等の4人の子が次々と天然痘で亡くなるという大ピンチ!に朝政を取り仕切ったのでした!
橘諸兄の曽孫は、第52代嵯峨天皇の妃となり、「橘氏最初で最後の皇后」となります。
また牟漏女王(むろのおおきみ)は、北家の藤原房前(ふじわらのふささき、不比等の次男、681~737年)に嫁ぎ、藤原摂関家の祖とされる真楯(またて、715~766年)を生みます。
橘諸兄(たちばなのもろえ)は、不比等の4人の子が次々に天然痘で亡くなった後に朝政に関わります。
このように藤原不比等と三千代の子孫をみると、第45代聖武天皇の皇后となった光明子、その子の孝謙(称徳天皇)天皇の子孫が絶えたものの、天武天皇から天智天皇の系譜に皇統が戻った後の天皇家の摂関政治の礎(いしずえ)を築いた人物としての不比等と三千代夫婦の大きさが見えてきました。
法律家のスペシャリストとしての抜きんでる才
そして不比等が単に権謀術数を巡らすばかりの政治家と違うのは、彼の「法律のスペシャリスト」といえるほどの才能があったことです。
不比等が活躍したその時代に「大宝律令(701年)」、「養老律令(718年)」が制定されて、いよいよ日本という国は法治国家への道のりを歩み始めたのです!
「律」は刑法、「令」はそれ以外の主に行政法を意味します。
これ以前の「近江令(668年)」、も知られていますが、実際に施行されたのかは不明で、実在しなかったという説もあります。
天武天皇時代の「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう、689年)」には律はなく、「近江令」と同様に原本は残っていません。
現在、唯一残存する「養老律令」、他文献に残存する「大宝律令」の編纂に大きく関わったのが不比等でした!
唐(618~907年)の律令を見習ったとされるものですが、内容を吟味すると、大きく異なっています。
唐では法の「作成」「審議」「実行」が3部門分離し、権力が分散されます。
一方の日本では、権力が太政官(左右大臣)に集中します。
太政官のもとに「中務省」「式部省」「治部省」「民部省」「兵部省」「刑部省」「大蔵省」「宮内省」があるのです。
これは政治に深く立ち入らない女帝を前提とした法で、天皇を実権から放つまさに「象徴天皇制」を生み出した、という見解もできるようです。
また唐と異なり、皇族の「食い扶持」となる「親王国」を廃止しました。
もしかすると持統天皇のライバルを排除する考えを反映したものとみられます。
これによって権力が皇族から貴族へ移っていくことになり、天武天皇の皇親政治に逆行するもので、後に臣籍降下を促進し、源氏平家といった武家を生んでいくことにもなります。
そして日本は、唐のような「科挙(かきょ、官吏の採用試験。随~清朝まで)」の制度がなく、藤原氏などの名門貴族が世襲で高位に付けるシステムが続いたのでした。
7~8世紀は先進国家である随・唐を模範として、その基盤となる三大事業(律令の制定、恒久の宮、国史の編纂)を推進しました。
その過程でそれぞれ「日本固有」の形に仕上がったのでしたが、そのすべてに「不比等の思惑」が見え隠れしてくるのです。
藤原氏1300年の歴史が開かれる
不比等の幼い頃の状況は不明の点が多いのです。
鎌足の次男で、母は車持君氏(くるまもちきみし)の与志古娘(よしこのいらつめ)です。
幼少時は渡来系の田辺史氏(たなべのふひとし)が養育したとされ、この「史(ふひと)」から「不比等」を名乗ったとされます。
壬申の乱の前に父の鎌足が亡くなり、「政治基盤は弱かった」「姉妹が天武天皇に嫁いでいるつながりがあった」との両説があり、一方で「天智天皇ご落胤説」もあります。
天武朝では、目立つ活躍は知られない不比等ですが、持統朝天皇の時代になると表舞台にでてくるのです。
持統天皇~不比等~三千代の3人が育った「河内」の共通点が指摘できます。
三千代との婚姻で奥向きにも権力は及び、先妻の子の宮子を入内させ、生まれた皇子が聖武天皇です。
さらに三千代との間に生まれた光明皇后は、民間からの初の皇后として、第45代聖武天皇の皇后になりました。
子どもの藤原四兄弟(南家、北家、式家、京家)から、摂関政治による「藤原黄金時代」を築いたのです。
まさしく藤原氏1300年の歴史が延々と流れていったのでした。
第二次大戦の敗戦によって、子孫の近衛文麿(このえふみまろ、内閣総理大臣、1891~1945)はGHQから出頭要請を受けて、自死しました……
天皇家とともに命脈を伝える藤原氏
歴史書をひもとき、一つ一つの記述を積み重ねて、淡々と考証を重ねて藤原不比等の生涯と、藤原氏1300年の繁栄の足跡を、丹念に解き明かしてくださいました!
「摂関政治では権勢を極めても、天皇家に嫁がせた娘に男子を授からなかったりすると、藤原頼通(992~1074年)のようにあっけなく基盤が崩れてしまうこともあったんです。そのような脆弱さも抱えていました。そこから混乱は始まったのですよね」
……ですが、藤原氏の一族は、今も連綿と命脈を保っています。
天皇家のみならず、天皇家を支えてきた藤原氏もまた長い歴史をもった氏族であるということを実感できました。
歴史学というのは、まず資料に基づいた地道な作業の積み重ねであるということを、市川先生の姿勢から感じます。
そうした作業を重ねた上で市川先生は「天才藤原不比等」という最大の賛辞を贈ったのでした(大拍手)!
「法律を知っている者が一番強い」という言葉を、企業勤めをしている時に、耳にしたものですが、まさしく日本で誰より早く深く法律を極めた「法律のスペシャリスト不比等」。
藤原氏が他氏族に抜きんでて先んじた秘密は、ここにあったようです。
不比等の兄の定恵(じょうえ、643~666)は、遣唐使とな
定恵は「これからは”法”を取り入れた国家を作っていかなくては
兄の遺志を継いで、志(こころざし)を高く持つことができたのか
壬申の乱の後の天武天皇の時代、ひっそりと家の中でこもって、今の東大受験や司法浪人を重ねる人たちのように、黙々と勉強を重ねていたのでしょうか^^?
頭脳明晰で家柄もよければ、おのずと賢明な女性もと近寄ってきたのでしょう。
不比等と三千代。夫婦で2倍3倍のパワーを発揮したようですから、まさしく最強の夫婦ですね~♡
このような感想は個人の思いですが、それぞれ不比等について思ったことなど、その他もろもろ勉強会の後のカフェ会も、熱く盛り上がりました^^
藤原氏の氏神が東国に
天智天皇の時代から政治の表舞台に出て、1300年以上におよんで天皇家を支えて、日本の歴史をつむいできた藤原氏。
藤原氏の氏神として、奈良市の春日大社、東大阪市の枚岡神社とともに崇敬されてきたのが、東国の守護神の鹿島神宮です。
武甕槌神(たけみかづちのかみ)をお祭りします。
常陸国一の宮の鹿島神宮、下総国一の宮の香取神宮、神栖(かみす)市の息栖(いきす)神社を合わせて「東国三社」として、東国の人々の信仰を集めてきました。
2月の古代史日和勉強会では、えみ子先生が「東国三社」についてお話ししてくださいます。
関東地方に住んでいる私たちには、日本の歴史を考えさせてくれる身近な神社です。
鹿島神宮や香取神宮はご存知の方も多いと思いますが、息栖(いきす)神社はいかがですか?
「かみす」だの「いきす」だの珍しい名称ですね^^
余談ですが「いきす」は、福岡県飯塚市の遠賀川流域にも「伊岐須(いきす)」があって、「イザナキノミコトが濯(すす)いだ」の省略形かしら?……
なんて思いつき、忘れられない地名なんです。
古代妄想!はさておき……(大汗)
「神宮」という名称で呼ばれて、朝廷や東国の武士たちから厚い信仰を受けて来た鹿島神宮と香取神宮。
それと並ぶ息栖(いきす)神社についても、探究してみませんか?
初めての方も、リピーターの方も、きっと新たな気づきがあると思います。
ご興味のある方は、ぜひ足をお運びくださいね。
→勉強会は終了しました