こんにちは!yurinです。
9月最後の土曜日は、古代史日和勉強会でした。
今回は、市川達也先生の「古代最強の豪傑~蘇我馬子~」です。
蘇我馬子といえば、物部守屋と神仏戦争を起こしたとか、女帝の推古天皇を操ったとか言われながら、その実像まではよくわかっていませんでした(汗)
『日本書紀』を時系列にそって丹念に読み解くことで、蘇我馬子がだんだんに歴史の中から鮮明に浮かび上がってきたのです。
目次
『日本書紀』と蘇我馬子
『日本書紀』を資料にして、蘇我馬子の実像にどこまで近づけるのかしら?興味津々で臨んだ勉強会。
市川先生は、前回までに称徳(孝謙)天皇、藤原不比等を『日本書紀』『続日本紀』を丹念に読み解き、淡々と彼(彼女)の人生をひもといてくださいました。
それは今回も同様です。
けれども世間一般では『日本書紀』の歴史書としての価値を低く見る書物が横行!しています(泣)
「聖徳太子はいなかった」「聖徳太子と蘇我馬子は同一人物」「藤原不比等がいいように改ざんした」「推古天皇は馬子の操り人形」など『日本書紀』を疑う記述があちこちに(大汗)!?
市川先生は『日本書紀』についての見解を冷静にまとめてくださいました。
『日本書紀』は六国史の中で、日本国最初の正史(全30巻)
六国史とは?
- 『日本書紀』(720年)神代~(41)持統天皇
- 『続日本紀』(797年)(42)文武天皇~(50)桓武天皇
- 『日本後紀』(840年)(50)桓武天皇~(63)淳和天皇
- 『続日本後紀』(840年)(54)仁明天皇
- 『日本文徳天皇実録』(879年)(55)文徳天皇
- 『日本三代実録』(901年)(56)清和天皇~(58)光孝天皇
なお『古事記』は天皇家の歴史書で物語風の読み物です。
『日本書紀』では、
- 馬子の時代を記載した書物として他に『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』
- 681年に天武天皇が命じ、編纂を開始、舎人親王らが編纂し、720年に完成
- 完成後は遣唐使により唐へ献上、国内では役人の教育に使用された
以上のようなことから、40年の長きに渡って国家事業として編纂された正史であり
「藤原氏によるねつ造があると言われるが、馬子の時代は100年前の近い過去であり、極端なねつ造は難しいのでは?」
と正史としての『日本書紀』の価値を認めていらっしゃいます(大拍手)
蘇我氏の出自
蘇我氏の出自についても、所説紛々しますが、まとめると
- 葛城氏の分家
- 大和国曽我(現橿原市)の豪族
- 河内国石川(現南河内郡)の豪族
- 朝鮮半島からの渡来人
などです。
後に馬子が推古天皇に「葛城がふるさと」と言っていることなどから、葛城氏の分家で畿内発祥の豪族が妥当とみられるのです。
馬子の父の蘇我稲目が実質的な蘇我氏の祖です。
蘇我氏と物部氏の神仏論争
蘇我氏といえば、物部氏との神仏論争、宗教戦争が知られています。
すなわち馬子の父の蘇我稲目(そがのいなめ)と物部尾輿(もののべのおこし)の神仏論争です。
552年、朝鮮半島が動乱の中、百済の聖明王より仏教は正式に日本へ伝えられました(538年説も)。
仏教の受容に関しては、蘇我氏が推進派で、物部氏と中臣氏は反対派でした。
その先鋒に立っていたのが、馬子の父の蘇我稲目と物部守屋の父の物部尾輿です。
そしてついに馬子と守屋の時代に武力衝突に発展したのです。
厩戸皇子(うまやどのおうじ)、後の聖徳太子も蘇我氏側に参戦しています。
この争いは単純な神仏争いだけではなく、蘇我氏と物部氏の権力闘争で、蘇我の内部抗争も含んでいました。
馬子の娘は小姉君(こあねのきみ)と堅塩媛(きたしひめ)の二人が第29代欽明天皇に嫁いでいました。
それぞれが産んだ皇子たちを巡る葛藤です。
物部氏の側も、物部守屋の姪が馬子の妻、つまり馬子の子の蘇我蝦夷は、母は物部氏なのです(大汗)
馬子の娘の堅塩媛側の勝利でもあります。
仏教を盛り上げた馬子と厩戸皇子
因みに堅塩媛(きたしひめ)の生んだ皇子が、第31代用明天皇(聖徳太子の父)であり、第33代推古天皇です。
当初、第30代敏達天皇は廃仏派でしたので、崇仏派は劣勢でしたが、結局、物部氏は武力衝突に破れて、第33代推古天皇は仏教興隆の詔を発します。
国家として仏教を盛り上げることになり、その軸となったのが馬子と厩戸皇子でした。
すなわち「馬子が勝たなかったら、日本に仏教は根付かなかった」ともいえそうです。
つづく