『日本書紀』から読み解く【2】蘇我馬子・推古天皇・聖徳太子の実像

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こんにちは!yurinです。

古代史日和の勉強会のブログのつづきです。

崇峻天皇の暗殺と東アジア初の女帝推古天皇の即位

蘇我馬子について『日本書紀』は実に驚くべきことを記しています。

なんと史上ただ一人、臣下の身で天皇を弑逆(しぎゃく、主君を殺める)した!というのです(大汗)

 

『日本書紀』には皇族どうしの争いで天皇までも殺害に及ぶことは記されています。

それさえ第20代の安康天皇を、わずか7才の眉輪王(まよわのおおきみ)が父の復讐で殺めるという1例だけです(大汗)

まして臣下が天皇を殺した、などは、馬子ただ一人!神仏戦争に勝利した馬子は、娘の子姉君が産んだ第32代崇峻天皇を家臣に命じて弑逆してしまいます。

 

こうして第29代欽明天皇の皇子たちの代で、天皇への男性候補者は全員亡くなり、その下の世代は、当時の即位適齢期の30才を越えていなかったのです。

それで父は欽明天皇、母は馬子の姉の堅塩媛、異母兄の敏達天皇の皇后であった推古天皇が初の女帝として即位したとみるのが一般的です。

御子の竹田皇子に繋ぐ中継ぎです。

 

容姿端麗で政治感覚に優れていたと伝わり、次々と身内を失う中で、ひょっとすると崇峻天皇の暗殺を指示し、主体的に政権奪取した、との説もあるようです(大汗)

母が蘇我系で、馬子、厩戸皇子(聖徳太子)との「三頭政治」を行ったとされ、馬子のいいなりでなかったことは『日本書紀』の記述から伺えます。

 

馬子が「葛城の県(あがた、朝廷の直轄地)は私のふるさとです……ですからその地を授かり所有地としたいのですが」と願い出ると、推古天皇は次のようにお答えになりました。

「私は蘇我氏の出身の娘です。大臣(おおおみ、馬子)は私の叔父です……ですから今まで何かしらの提案について夜も昼も越えて受け入れないことはありませんでした。

ですが今、私の治世に突然この県(あがた)を失ったなら、後の君主は『愚かな婦人が天下を治めたので突然に県(あがた)を失ってしまったのだ』と、おっしゃるでしょう。

私一人の愚かな仕業(しわざ)というだけでなく、あなたも不忠とされ、後々まで世に悪名を残すことになるでしょう」

と言って、馬子の要望をしりぞけたのでした(大拍手)

 

こうしたことから史上初の女帝、推古天皇は、敏達天皇の皇后の広姫の没後、皇后となり権力掌握したわけで、すべては推古主導のシナリオとも考えられるのです(スゴッ!!)

生粋の蘇我系の厩戸皇子(聖徳太子)の仏教推進政策

それでは推古天皇~蘇我馬子~聖徳太子の三頭政治のうち、残る厩戸皇子こと聖徳太子(574~622年)を見ていきます。

父は第31代用明天皇(堅塩媛系)、母は穴穂部間人皇女(小姉君系)の生粋の蘇我系皇子で、同じ蘇我系の推古天皇が即位した時に摂政となりました。

「冠位十階」「十七条憲法」「遣隋使派遣を推進」したとされますが、『日本書紀』で厩戸皇子の事績と記されるのは「十七条憲法」だけです。

 

新羅征討(旧任那の奪還のためとされる)の将軍に同母弟、異母弟が任命されていることから対外政策にも深く関与した可能性があります。

秦河勝など渡来系の人脈も濃厚です。

 

605年、明日香(あすか)から離れて造営された斑鳩宮(いかるがのみや)は、物部氏の旧領です。

筋違道(すじちがいみち、太子道)で象徴される独自の直轄地を持ち、経済力も十分でした。

それで新興の仏教政策を推進し、四天王寺・法隆寺を建立しました。

法隆寺

師は高句麗の僧恵慈(えじ)で、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)を表わしました。

総合すると、厩戸皇子は生粋の蘇我系の皇子として、対立軸にあった堅塩媛系(父)と小姉君系(母)を融合した政治的立場で、ニュートラル(中立的)ではなかったようです。

厩戸皇子は、720年成立の『日本書紀』の時代に既に聖人化され、751年の『懐風藻』で「聖徳太子」の尊称が見え、「日本の釈迦」と仰がれたことがわかります。

 

聖徳太子のいくつかの別名に「豊聡耳(とよとみみ)」「厩戸(うまやど)」の名称があるのは、当時すでにキリスト教(景教)が伝わり、影響を受けた可能性も考えられます(^0^)

聖人化の理由として①仏教興隆貢献に対する仏教勢力の顕彰②「子孫討滅」「蘇我の顔」として藤原氏主導の鎮魂説があります。

後世の研究においても①馬子の功績のすり替え説②聖徳太子と厩戸別人説③馬子の功績のすり替え説など、「聖人は虚構」との説も存在します。

 

推古天皇以後の皇位継承を見据えて、ライバルの押坂彦人皇子(おしさかひこひとのおうじ)に対し、馬子が意図して「持ち上げた」可能性もあります。

聖徳太子伝説については、後世の粉飾も否定できないが、生前の厩戸の人間性が優れていたとの伝承にもとづいたものであったのではないか?と市川先生は考察しておられます。

崇仏戦争での「四天王寺祈願」の影響もあるそうです。

つづく

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