こんにちは!yurinです。
古代史学者の安本先生は「『源氏物語』からさかのぼることで、『古事記』の中の古代人の心がわかった」と、おっしゃいます。
ただの男女の恋愛を描いただけ、とされていた『源氏物語』から「もののあはれ」を抽出し、そこにこそ人間が本来もっている真情がある、と賛辞を贈ったのが本居宣長でした。
目次
宣長を育てた松坂の町
本居宣長(1730~1801年)と門下 500人ともされる弟子たちを育てたのが、三重県松阪市です。
いくつかの街道が合流する、中世以来のお伊勢参りの参道に面して、蒲生氏郷(1595~1556年)の城下町として発展しました。
近郊の平野では綿を中心に米・麻・茶などの農産物に恵まれ、豪農も多かったのです。
その産物を商品として豪商三井家をはじめ、宣長の生家の小津家など、当時49軒もの江戸店持商人がいたようです。
町人文化が栄えた町でした。
宣長も子弟たちも、その経済的活力に支えられた農商家の名士の出身だったのです。
宣長は、5年間、京都へ上り医学・漢学を学び、その後、医者を本業として生計をたてました。
その間、師や門下生とともに酒やたばこをいとなんだといいます。
上京中には名所旧跡・神社仏閣をめぐり、能・芝居・相撲・花見・紅葉狩り・月見・祭礼・乗馬・三味線・詩歌・平家琵琶……と青春を謳歌したのでした。
宣長は青少年期までに、書道・謡曲・射術・茶道・五経の素読・和歌・絵画などの研鑽も積んでいます(スゴッ!)。
平和の時代が続いたので、支配者層以外でも、ここまでの文化レベルを享受できた人々もいたのでした。
これらの研鑽を積むことは、彼の門下生も同様で、その教養の上に国学を要望したのです。
そしてそのパワーこそが、官学であった儒学を越えて時代を動かすことになったのでした。
この江戸時代の国学の興隆の様相を振り返り、安本先生がカルチャセンターで、淡々と古典の文献考証を続けてこられた姿勢と重なってくるのでした。
猿田彦の神も倭姫命もてこずった阿坂の荒ぶる神
『日本書紀』の一書では、猿田彦神(さるたひこのかみ)が、天孫降臨する瓊瓊杵(ににぎのみこと)を導いて大任を果たすと、伊勢方面へ移り住んだことを記します。
ついに先の期(ちぎり)のごとくに、皇孫をば、筑紫の日向(ひむか)の高千穂の槵触峯(くしふるのたけ)に致します。その猿田彦神は、伊勢の狭長田(さなだ)の五十鈴(いすず)の川上に到る
(とうとう前に約束した通り、皇孫ニニギノミコトを、筑紫の日向(ひむか)の高千穂の槵触(くしふる)の岳に、ご到着されるまで導かれました。
そして猿田彦の神は、伊勢の狭長田の五十鈴川の上流に到着しました)
古代の海人(あま)たちは、テリトリー広く活動したようです。
猿田彦大神は、南九州から伊勢地方へ移ります。その後、天照大神が祭られることになる、五十鈴川の上流です。
五十鈴川
さらに『古事記』には、次のような記事があります。
かれその猿田彦神、阿耶訶(あざか)に坐(いま)す時、比良夫(ひらぶ)貝にその手を咋(く)合わせて、海塩(うしお)に沈み溺れましき
(そして猿田彦神は、阿坂(松阪市付近)にいらっしゃる時、漁をしている時に、ひらぶ貝(タイラギか)にその手をはさまれて、海水に沈んで溺れてしまったのです)
なんと!猿田彦神は、ヒラブ貝に手をはさまれて、難儀するうちに溺れてしまったのでした……
ひらぶ貝については「未詳」とする注釈書もあり、本居宣長もこの「ひらぶ貝」について、現地で聴きまわるなどいろいろ考証したようです。
現在ではひらぶ貝は、ヒイラギという貝とされています。潜水して深くもぐってとる貝です。
猿田彦の神は、海人(あま)としての本領から、深く潜水していたのでしょうか。
一方で、この後、第11代垂仁天皇の皇女の倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の御魂(みたま)の八咫(やた)の鏡を奉じて、伊勢内宮の地に入ろうとします。
『倭姫命世紀』では、「阿坂の神という荒ぶる神のために、五十鈴川上になかなかお入りになれなかった」と記されています。
『皇太神宮儀式帳』でも、阿倍大稲命(あべのおおしねひこのみこと)が、「阿坂の荒ぶる神を平定し、お伴となって奉仕した」とあります。
こうしたことから阿坂という松阪地方は、古代に大きな勢力を保持した人々がいた地として知られていたことがわかります。
猿田彦の神の死もそれと関連づける説もあるほどです。
現在の松阪市に阿坂山(現升形山、312m)があり、阿射加(あざか)神社があります。
『延喜式』神名帳には「阿射加神社三座」とあり、松阪市小阿坂町、大阿坂町、山頂の三座とされています。
祭神については、本来の荒ぶる阿坂の神の説、猿田彦の神の説などあり、本居宣長も考証しています。
伊勢神宮のお膝元、松阪市出身の本居宣長が、『古事記』に由緒をもつ、地元の神々や生き物まで、本文にもとづいて入念に考証する作業の一端を知っていただければと思います。
江戸封建社会の基盤になった儒教の漢心(からごころ)に対して
宣長が人生を送った江戸時代、幕府は士農工商の封建体制の思想的基盤を、儒学とりわけ朱子学において、普及に勤めたのでした。
しかし封建社会の武士道のよりどころになった、その儒教の規範こそ、人間本来のありのままの真情を覆いかくしてしまうものである、という考えが宣長の「漢心(からごころ)排斥」の一端になっていたのです。
あっぱれな武士が君のため、戦場で潔く討ち死した場面を描く時、……その時の心のすみずみまでもつぶさに書きつくそうとすれば、一方さすがに故郷の父母も恋しいであろう。
妻子の顔も今一度見たいと思う出あろうし、命もどうして少しは惜しくないことがあろう。
これがいかんともしがたい人間の真情で、武士であるからそういう女々しい心など露ほどもないと言えば、かえって心ない岩木の類に等しい(『源氏物語玉の小櫛』)
マーカー:古代史日和
と、人間の真情にふれる。
ところが一方、
中国の書物は、その真のありのままの情を隠してつくろい、苦労してはげむべきことは、君のため国のため命を捨てることである、などというようなことばかり書いている(『紫文要領』)
マーカー:古代史日和
と論ずるのです。
……こうした原文にふれると、宣長の目指す方向性と全く逆に進んでいった歴史について、考えさせられるのです。
松阪市の本居宣長記念館では「もののあはれって、何だかわからないなあ?」
と言う小学生が、参考図書としておかれた歴史漫画『鈴せんせい』を手にして見入っていました。
微笑ましかったです^^
古典に流れる人間の真情が「もののあはれ」
儒教道徳が一般的であった時代に、みだらな恋愛小説とされた『源氏物語』から、人間のありのままの真情「もののあはれ」という概念を抽出し、文学として確固たる地位を与えたのでした(大拍手)
それは、まさしく安本先生がおっしゃる通り、『古事記』のヤマトタケルが弟橘媛(おとたちばなひめ)を失って、「わが妻よ」嘆く姿にたどりつくものです。
妻に先立だれて、妻を追い求めてそのかたわらで嘆くうちに、黄泉(よみ)の軍隊に追われる窮地に陥って、命からがら脱してきたイザナキノミコトが、「私の心が弱かった」と吐露する場面も浮かびます・・・
そして得意の和歌については、
歌とは、政治・道徳とは別のものである。自分を押さえようとして押さえきれず、それが言葉や素振りにあらわれる。さらには道ならぬ恋の淵まで進んでしまう。
これらは、深く哀しい人情の機微を映し出している。そのようなさいに、心が深くこもった歌が生まれる(『排蘆小舟』)
と、歌の本質に迫るのです。
日本初めての和歌とされる、スサノオノミコトが詠んだ「出雲八重垣」の歌も、妻を思う必死の真情が発露だったのでしょうか。
宣長のもとへ、当初集まった人々は、詠歌の上達を願う人々が大半だったのです。
生涯に万とものぼる歌を読んだとされます。
医業を生業とするかたわら、30歳から『源氏物語』を開講し、『
スゴいことですね。
さらに『古事記伝』44巻も平行して、
そして、晩年には紀州藩主の徳川治宝、
日本の古典に何が書いてあるのか?知りたくなるのは、
宣長の一族の小津家からは、映画監督の小津安二郎氏が知られます。
ノーベル賞作家のカズオ・イシグロ氏が、遠いイギリスで心惹かれて、何度も見たのが小津氏の『東京物語』だったそうです。
本居宣長の「もののあはれ」も小津安二郎も、日本で薄れゆく中で、はるか遠いイギリスで心に秘めて作家活動をされておられる方の話しから、あらためて蘇らせたていただき、その思いに感動します。
本居宣長の国学の幅は広く、弟子たちも後世の人々も、それぞれ自分なりの宣長のエッセンスを継承するのが精一杯だったのではないでしょうか。
21世紀型の国学者の安本先生のテリトリーもまた広いのです。
ですから、宣長からも安本先生からも、その一部だけでも受け継いで、次世代へバトンを渡していけたらと願ってやみません。
最後に宣長が読んで桜の歌を紹介しますね。
本居宣長は、晩年に300首あまりの桜の歌を読みました。
まちわぶる花は咲きぬや いかならむ おぼつかなくもかすむ山のは
(待ちわびた桜の花は咲いたのでしょうか。山には春霞がかかって、はっきり見せてくれないのです)
うぐいすも霞もいとどのどけさを くわうる春の花盛りかな
(鶯がさえずり、春霞もうっすらかかる。のどかな春の日に、おりしも桜が満開に咲いている)
散りぬともわがうへに散れ 桜花 こよいはねなむあかぬ木陰に
(どうせ散ってしまうなら、私の上に散ってください。今夜は、いくら見ても見飽きない桜の木陰で寝てしまおうと思います)