こんにちは!yurinです。
古代において大河の中流以下は国境になる場合が多いようです。
利根川、木曽三川、淀川など。
あるいは上流・下流で、いずれも2か国以上に別れています。
筑後川流域も2か国以上分かれていたのではないでしょうか。
筑後川流域でわかれる「筑紫の国」と「肥の国」
〈筑紫の国〉と〈肥の国〉は、筑後川とその支流の宝満川が、国境になっています。
『肥前国風土記』は、
肥前(ひのみちのさき)と、肥後(ひのみちのしり)は、もと、一つのくになりき
とあります。
すなわち佐賀県と熊本県は同じく「肥」の国であったのです。
有明海沿岸の国でまとまっていて、筑後を隔てた筑紫の国とは分かれていました。
歴史作家の河村哲夫先生は、福岡県柳川市のご出身です。
柳川市は、筑後川の河口にあり、旧筑後の国山門(やまと)郡にあたります。
『日本地名大辞典 福岡県』平凡社より
邪馬台国九州説では、地名の一致からこの地を「邪馬台国」の候補地にする方もいます。
……ですがこの「やまと」は、「もたらされた地名」と考えます。
要衝地を「やまと」勢力が、しっかり掌握したのでだと考えます。
そして地名をもたらした、と。
そこで河村先生に、筑後の国についての日頃の疑問をお伺いしました。
「ポジションからすると、”筑後の国”が筑紫の国で福岡県となっているのは、不思議なのですが?”肥の国”でもいいようですが、伝統的なものでしょうか?」
「僕も不思議だと思います」とのご回答でした。
河村先生も疑問に思うところがあるようでした。
筑後の国は地理的には、有明海に面し熊本県にも隣接します。
「肥の国」であっでもふさわしいようです。
一方の神崎・吉野ヶ里のある筑後川の北岸が、地理的には「筑紫の国」であっても自然です。
ですが、そうではなく「肥の国」です。
吉野ヶ里遺跡と日の隈山
そして筑後の国は「天孫」が祭られていなくても、「肥の国」とは一線を画し、「筑紫の国」なのでした。
国境は決して後世の強制的な理由でなく、古代からの歴史の中で、小さな国が少しずつまとまり自然に築かれたものとみられます。
筑後の国のポジションに、歴史を考えるヒントがあるようです。
高良山麓には、弥生から古墳時代の始まりに築かれた祇園山古墳があります。
筑紫平野を眼下に、はるか遠く博多平野方面までも遠望して、眠りにつく王者は、果たしてどのような系譜の人物なのか、その姿に思いを馳せました……
筑後川が育む豊かな風土
『魏志倭人伝』で不弥国の次に投馬国が記されていますが、その投馬国は、
南して投馬国に至る。水行すること二十日、官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那梨(みみなり)という。五万余戸ばかりなり
とあります。
邪馬台国畿内説では、ここでも「紀伊半島の南」に5万戸の投馬国をみつけられないので、方角は「東」の間違えで、「出雲」をさすのだろう、と言います(大汗)
ですが、7万戸の邪馬台国につぐ生産力、筑後川を使った水運による「水行20日」も、筑後の国であれば、矛盾は少ないです。
ここで、投馬国の比定地を紹介しますね。ご参考まで。
筑後の国は、北部九州の中で、私の郷土の千葉県に一番似ていると思いました。
大きな河川によって国境を隔てられていること、農業生産力が高いことです。
ですが、外来の文化の受容という点では、玄海灘諸国の方が有利です。
東シナ海方面での交流を考えても、長崎・熊本・鹿児島方面よりは奥まってしまいます。
金属器や鉄器などの武器の獲得には遅れをとり、それで他国への進出には一歩引いたスタンスだったのではないでしょうか。
それだからこそ、豊かに自然に恵まれた土地から外へ出ていくのでなく、じっくり腰を落ち着けて、農業や手工業に励む人々が多かったのではないでしょうか。