こんにちは!yurinです。
投馬国は邪馬台国7万戸につぐ、5万戸の大国です。
筑後地方は、「三潴(みずま)」「上妻(かみづま)」「下妻(しもづま)」など、当地方に目立つ「つま」地名から、「投馬(妻=つま)国」にもっともふさわしい地域です。
筑後川流域は古代においても、2か国以上の大国に分かれていたのではないでしょうか。
高良山麓の「朝妻(あさづま)の泉」
7世紀末に、西海道の筑紫・豊・肥の国はそれぞれ分かれ、筑後川を隔て「筑紫の国」は筑前・筑後に分かれました。
今の福岡県南西部、筑後川の左岸は筑後の国となったのです。
その筑後の国の霊場が、高良大社(久留米市御井町)です。
神社が鎮座する高良山(312m)は、耳納(みのう)連山の西端にあります。
高良大社からは、筑紫平野を一望するまさに王者の眺めが広がります。
南北から東西に流れをかえる筑後川に、北の宝満山から流れる宝満川が合流します。
正面には、筑後川の対岸に吉野ヶ里遺跡のある平野の向こうに背振(せぶり)山(1055m)の山並みが見え、西南には有明海まで見渡せます。
高良大社から背振山と吉野ヶ里方面
東側には、筑後川を隔てた平野の奥に英彦山(ひこさん)・馬見山(うまみさん)までつづく筑紫山地が連なります。
これほどの眺望が得られる要衝地であるものの「天孫」がお祭りされていないのは、やはり大和朝廷の父祖の地とは、一線を画すものがあったのでしょう。
その高良山の麓に「朝妻(あさづま)の泉」があります。
味水御井(うましみずみい)神社が祭られて、池の中の神体石を拝します。
山頂の水分(みくまり)の湧水地 | 上の磐座(いわくら) |
中腹の古代山城の神籠石(こうごいし) | 中の磐座 |
山麓の朝妻の泉 | 下の磐座 |
神籠石は朝鮮式の山城として、白村江の戦いの後に築かれた防御の設備という説もありますが、やはりそれほどの要衝地なので、いにしえの神域であったとあかしと考えられます。
「あさづまの泉」は、高良山の汐井(潮井、しおい)場として、佐賀県東部や筑後地方に人々が、奉拝にきます。
「お汐井取り」は、遠賀川流域で顕著な風習で、清浄な海水や川砂を持ち帰り、家や神域を清めるものです。
その汐井を受けるたびに、神々が降臨するとされてきました。
国司の屋敷地がこの場所にあったとされます。
筑後川の対岸の英彦山(ひこさん)を奉じる人々に対峙して、高良山を仰ぐ人々の信仰圏があったことが理解されます。
大和の葛城の「朝妻(あさづま)」
平安時代の『和名類聚抄』(辞書、931~938年、和名抄)には、筑後の国10郡が記され、その中に「上妻(かみつま)郡」「下妻(しもつま)郡」「三潴(みづま)郡」があります。
「投馬(つま)」ゆかりの地名が顕著です。
今の八女市・筑後市・大川市など広域におよびます。
また高良大社のある久留米市は「御井(みい)郡」となっています。
「御井(みい)」はすなわち「あさづまの泉」に因む郡名です。
こうしてみると筑後の国の大部分は、「あさづま」ゆかりの「つま」に因む地といえるのではないでしょうか。
一方で「あさづま」は、第19代允恭天皇の「雄朝津間幼稚子宿祢尊(おあさづまわくごのすくねのみこと」のお名前になっています。
奈良県御所市朝妻(旧葛城郡葛城村)の地名に残り、奈良県と大阪府の境の葛城山塊の金剛山(1125m)は「あさづま山」とも呼ばれていました。
允恭天皇の父は第16代仁徳天皇です。
『日本書紀』に仁徳天皇が詠まれた歌にも「朝妻」が出てきます。
朝妻(あさづま)の 避介(ひか)の小坂を 片泣きに 道行く者も 偶(たぐ)いてぞ良き
(朝妻山の避介(ひか)の小坂を、一人で泣いて道行く人にも 道連れがあるのが一番いいです)
また『万葉集』にも「あさづま」は歌われます。
子らが名に かけの宜(よろ)しき 朝妻(あさづま)の 片山岸(かたやまぎし)に 霞たなびく
巻10 1818
(あの子にふさわしい名前に思われる「朝妻(あさづま)」という名の山の、切り立った崖に霞がたなびいていることです)
仁徳天皇の皇后は、葛城氏の磐之媛(いわのひめ)皇后です。
それで「あさづま」が天皇のお名前になり、歌にも詠まれたようです。
近江の神功皇后ゆかりの地「朝妻」から美濃~飛騨への山の道
実は『万葉集』の「あさづま」は、近江国(滋賀県)の「あさづま」に因む歌、という解釈もなされます。
琵琶湖に注ぐ天野川の河口に「朝妻(あさづま)港(米原市、旧坂田郡)」があります。
神功皇后の出身氏族の息長(おきなが)氏は、この港によって琵琶湖から淀川水系まで広く交易を行いました。
こちらにも朝妻山(日撫山、250m)があります。
山の辺の道から葛城山方面
米原市は古代からの要衝地の不破の関(岐阜県不破郡関ヶ原町)に隣接します。
古代東山道の道は、米原から美濃の国~飛騨の国へと山々の方面に向かいます。
一方で、北部九州の〈あさづまの泉〉に象徴される、筑後の国の北東にも〈耳納(みのう)連山〉が連なり、峠を越えると大分県の〈日田市〉になります。
耳納(みのう)連山
山の方へ「つま」→「みの」→「ひた」と地名が流れています。
息長氏の先祖がもたらした地名なのでしょうか。
「あさづま」は投馬(つま)国ゆかりの地名であるともに、大和にも近江にもゆかりの由緒ある地名で、懐かしい響きがします。
『魏志倭人伝』に出てくる国名について判明しているだけでも、現在まで「対馬」「一大」「末盧」「伊都」「奴」「不弥」などは、表記をかえて、そのままあるいはその一部が残っています。
さらにその地にとどまらず、全国展開といっていいほどに、各地に広がっている地名です。
ですから5万戸「投馬国」、7万戸の「邪馬台国」も、日本全国の一般的な地名から探した方がふさわしいのではないでしょうか。
九州王朝説では「ヤマイチ国」なるものがささやかれますが、他の国々を上回る7万戸の「ヤマイチ」が、地名を失って雲散霧消したとは考え難いです(大汗)
「投馬国」「邪馬台国」も一般的な地名から探すべきと思います。
「投馬国」「邪馬台国」も、これほどにたくさん候補地が広がっているのも、それらの国々が全国に拡散して関連性があるとみられるからです。
その中でも、もともとの発祥地は、やはり北部九州の筑紫の国、であったのではないでしょうか。
……
久留米へ来た日、真っ先に、味水御井(うましみずみい)神社を参拝しました。
市街地にあって「朝妻(あさづま)の泉」が、悠久の昔から変わらずに清冽に湧き出ています。
高良大社と筑後の国の旅について、以前にブログで書きましたので、合わせてご覧いただければ幸いです。