「阿曇氏と宗像氏」の水軍力で歴史のトータルな面白さ【1】

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こんにちは!yurinです。

先週末は「古代史日和」で、河村哲夫先生による勉強会がありました。

「何もかも繋(つな)がってきて、スッキリ見えてきました!」

とは、先生のお話しが終わり、ラスト30分の質問コーナーで、真っ先にあがった感想です。

 

そして充実の講義内容だったからこその、真剣な質疑応答が、交わされました。

密度が濃く充実した時間に昇華されたのです。

やはり古代史は面白い!歴史が面白い!

1.本家の「阿曇」と分家の「安曇」

このブログで安曇氏について書いてきたのですが、河村先生によると、本来の安曇氏の表記は「阿曇」が正しいそうです。

「安曇」ではなく「阿曇」です。

全国に広がる阿曇氏の本貫地は筑前国糟屋郡とされます。

志賀島の志賀島海神社をお祭りします。

志賀海神社

長野県の穂高神社を祭る安曇氏は、分家筋でこちらは「安曇」と書くそうです。

しまった(大汗)!そうだったのですね。

確かに『日本書紀』に、白村江の戦いで船団を率いた大将軍は「阿曇比邏夫(あずみのひらふ)」の表記です。

阿曇比邏夫(あずみのひらふ)

また、第15代応神天皇の3年、

諸国の海人(あま)がさばめいて(騒ぎ立てて)、命(令)に従わないので、阿曇の連(むらじ)の先祖の大浜宿禰(おおはまのすくね)を遣わして平定させた

という記事があります。

ここでも「阿曇」です。

 

現在の「安曇野」が鮮明すぎて、『日本書紀』の表記を深くは考えなかったのでした(大汗)

古代の漢字の表記は、音だけ借りて意味はないものも多いのですが、逆に同じ音の漢字を、意味内容によって、しっかり使い分けている場合もあったのでした。

2.大和朝廷の水軍として国運を担う

河村先生の講義から阿曇氏のおおよそを説明していきますね。

伊邪那岐命(いざなきのみこと)の禊(みそぎ)によって多くの神々が生まれました。

そして阿曇氏の先祖の綿津見(海神、わたつみ)三神と、住吉三神が一緒に現れたのです。

博多湾古図

先代旧事本紀によれば

阿曇の連(むらじ)が斎(いわ)い祭る筑紫の斯香(しか)の神

とあります。

「筑紫の志賀島の神」で、志賀海(しかうみ)神社を祭ります。

 

また新撰姓氏録では、

阿曇宿禰(すくね)は海神(わたつみ)豊玉彦神(とよたかひこのかみ)の子、穂高見命(ほだかみのみこと)の後(すえ)なり

と。

この海神豊玉彦神の子が豊玉姫(とよたまひめ)、玉依姫(たまよりひめ)で、神武天皇の祖母と母です。

一族の椎根津彦(しいねつひこ)は、南九州から出航した神武天皇の船団が、難所の海峡を通過する時に現れて、先導します。

『日本書紀』では豊予海峡、『古事記』では明石海峡でのできごとになっています。

どちらにせよ、神武天皇の東征は、阿曇氏の先祖たちの「ワタツミ一族」の大きな貢献によって達成されました。

 

さらに『日本書紀』の神功皇后の朝鮮出兵の時に、磯鹿(しか)の海人(あま)名草(なくさ)に偵察を命じたとあります。

地元では阿曇磯良(あずみのいそら)が随行して水先案内人を務めたことになっているそうです。

もちろん神武天皇以前の、邪馬台国時代・奴国の時代にも、大陸への架け橋となり、水軍として阿曇族は活躍したとみられます。

なんといっても志賀島からは「漢委奴国王」の金印が出土しています。

邪馬台国に追われた、金印の奴国の王を逃がしたのも阿曇族であった、と。

 

北部九州の弥生時代の中期(紀元前1世紀)の王墓からは、後の天皇家の三種の神器につながる「鏡・玉・剣」が出土しています。

新潟県糸魚川産のヒスイ、南西諸島のゴボウラ貝も運ばれ、安曇氏の広域の活動が推定されます。

 

ちなみに綿津見(わたつみ)三神といっしょに生まれた住吉三神「奴国の守護神」であって、海人(あま)族ではないそうです。

奴国の主要遺跡の地に祭られている神々とのことでした。

住吉神社(福岡市博多区)

3.丸木船を使った古代の航海に思いを馳せる

「阿曇族は、毛細血管みたいに、内陸部へも進出していますよ」と、河村先生。

広く日本海を航海し、大陸との通交を担ったかと思えば、その一方で、日本列島の沿岸も巧みに航海し、河川までも利用して、日本列島の内陸部へも進出。

「海部(あまべ)」「志賀(しか)」の地名とともに全国展開していきます。

資料の多さにもかかわらず、テンポがいいので、あっという間に講義は進展。

しかもウィットに富んで笑いのスパイスが絶えないです。

 

長野県の穂高神社では、毎年の祭事に、志賀海神社から1トンもの塩が運ばれるとか!

穂高神社

内陸部にかかわらず「お船祭り」があって、船にまつわる祭祀を大切にしていました。

穂高神社祭事の船飾り

「古代の造船技術」も話しが及んで興味津々……。

木の中味をくり抜いた丸木船の、両サイドに側板をたてて木の釘を打ち付ける………

「古代の船の絵とか、埴輪を見てもボーッと見ただけでしょう(笑)!?」

そうです!

 

鉄のない時代に、石斧で木を伐採して、くり抜く。

鉄の釘もないのに、船を完成させる古代人の知恵に改めて感動。

もしかしたら、割竹型木棺(わりたけがたもっかん)に埋納された古代人は、海をこよなく愛する人々が、船の中に納まって、永遠の旅を続けているのかもしれない……

そんなロマンも感じてきます。

 

博物館で、船や木棺の出土品や模造品を丹念に見たい、とわくわくしてきました。

あっという間に時間は過ぎ去り、阿曇族で半分。

あと半分が宗像族です。

つづく

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