こんにちは!yurinです。
『古事記』の天孫降臨で、天孫降臨を先導する大伴氏の先祖の天忍日命(あめのおしひのみこと)が記されますが、『日本書紀』でも同じようにあります。
目次
天孫降臨を先導する大伴氏の先祖の天忍日命
『日本書紀』の神代には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨の段に次のように記します。
その時、大伴連(おおとおのむらじ)の遠祖(とおつおや)の天忍日命(あまのおしひのみこと)は、来目部(くめべ)の遠祖(とおつおや)の天槵津大来目(あまのくしつおおくめ)を率いて、背には天磐靫(あまのいわゆき)を負い、
腕には稜威(いつ)の高鞆(たかとも)を身に着け、手には天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)を取り、八目鳴鏑(やつめのなりかぶら)を添え持ち、さらに頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯びて、天孫の先払いをした
弓矢・矢入れ・手の防具・剣など、当時としては最新最高の武具を身に着けて瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を護衛し、先導して進軍したとみられます。
- 天磐靫(あまのいわゆき)⇒ 頑丈な矢入れ
- 稜威(いつ)の高鞆(たかとも)⇒ 弓の玄が当たると霊験あらたかな音を立て、直接に手に当たるのを防ぐ道具
- 天梔弓(あまのはじゆみ)⇒ ハゼの木で作った弓
- 天羽羽矢(あまのははや)⇒ 大蛇をも射る矢
- 八目鳴鏑(やつめのなりかぶら)⇒ 矢の先端に付けるカブ型の具で、穴がたくさん開いて音がする
- 頭槌剣(かぶつちのつるぎ)⇒ 柄頭が環状の形をした剣
弓
井戸尻考古館にて
素環頭鉄刀(左2本)と鉄刀(右)
国立歴史民俗博物館にて
神武天皇軍を熊野山中で八咫烏とともに先導
さらに時代は下り神武天皇の東征の際にも、大伴氏は本領を発揮します。
大阪湾から生駒山越えの大和入りを、長髄彦(ながすねびこ)によってはばまれ、紀伊半島を南下します。
そして熊野山中を北上するという困難なルートに直面します。
この時現れた八咫烏(やたがらす)とともに皇軍を先導したのが、大伴氏の先祖の日臣命(ひのおみのみこと)でした。
……大伴氏の遠先(とおうおや)の日臣命(ひのおみのみこと)、大久米(おおくめ)を率いて、大軍団の将軍として山道を踏み分け越えて行き、カラスの飛ぶ方向へ求めて、
仰ぎ見ながら追っていった。ついに莵田(宇陀)の下県(しもつあがた)にまで達した。……そうして天皇は日臣命を賞賛して『武勇と忠誠心に優れている、先導の功績もあった。名前を道臣命(みちのおみのみこと)とするように』と仰せられた
大伴氏の先祖は、紀伊半島の山中を縦断する皇軍を八咫烏とともに見事に先導し、道臣命(みちのおみのみこと)の名を賜ったのです。
その後の大和入りの戦いでも「忍坂(おさか)の大室屋(おおむろや)」と言われた拠点集落に敵方を計略によっておびき寄せて、一気に滅ぼし、勝利への道筋を開いたのでした。
この時、大伴氏の先祖が率いた久米部の人々は「久米歌」によって味方を鼓舞激励したのでした。
この久米歌は歴代天皇代替わりの大嘗祭の時に、久米舞とともに歌われました。
文武両道の大伴氏の先祖の姿は、神武天皇の時代に垣間見ることができます。
日本武尊の東征に従軍した大伴武日(おおとものたけひ)
この後、第12代景行天皇の時代には、日本武尊の東征に際し、吉備武彦(きびたけひこ)とともに大伴武日連(おおともたけひのむらじ)が従軍を命じられたとあります。
『日本書紀』では、大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)の活躍は記されていませんが、帰路で甲斐の国まで戻った時に、酒折宮(さかおりのみや)で「靫部(ゆけいのとものお=矢入れを背負う者。兵士)」を授けたことがあります。
大伴武日命にこの地での駐留を命じたものか、あるいは別働隊として信濃へ入らせたとも考えられます。
山梨県西八代郡市川三郷町の弓削神社は日本武尊とともに大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)をお祭りします。
居館があった地とされています。
また山梨県からひと山越えた長野県佐久市望月町には大伴神社があり、大伴武日命の降臨を伝えています。
日本武尊はあと一歩で大和への帰還がかなわなかったのですが、酒折宮の歌、日本武尊が臨終での歌、崩じた時に妃や御子たちが歌った歌などが記されています。
大伴武日命の東国遠征によって、東国地方の歌文化にもふれ『万葉集』に取り入れられる素地を築いたとも考えられます。
『古事記』には日本武尊の葬儀の時に歌われた歌があります。
「海処(うみが)行けば 腰なずむ 大河原(おおかわら)の植え草 海処(うみが)はいさよう」
(海へ入ると潮の流れに難儀して広い河の水草のようになびいているだけです。海の中は進むことができない)
後世の天皇の大葬にも歌われてきたそうです。