物部守屋を祭る二つの神社【2】諏訪信仰の聖地

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物部守屋を祭る二つの神社【1】生駒山麓は物部氏の本拠地のつづきです。

日本の神道祭祀の奥深さに入り込む

戦国時代の織田信長は、延暦寺や諏訪大社を焼き払い、石山本願寺に集結する一向宗と抗争をくり広げました。

江戸時代初期には、キリスト教徒による島原の乱のような宗教戦争も確かにあったのです。

日本人は宗教戦争に対する意識は薄いのではないでしょうか。

ですが日本古来の神道祭祀の伝統の中に、新たな異国の宗教が入ってくるとき、違和感を持ち反発した人々は確かにいたことに気づきます。

日本古来の神道祭祀を守ろうとした物部守屋と父の物部尾(お)興(こし)は、その仏教反対の急先鋒でした。

 

『日本書紀』の欽明天皇13年、蘇我の稲目との神仏論争において、物部尾輿(もののべのおこし)は次のように主張します。

「わが帝王(みかど)が天下に王としておられるのは、常に天つ神と国つ神という八十万(やおよろず)の神々を、春夏秋冬お祭りすることをお勤めとしておられるからです。」

なるほど、平安時代においても、やはり神祇官(じんぎかん=祭祀を司る役所)は、太政官(だじょうかん=政治を司る役所)の上位にあるほどでした。

 

大阪府八尾市の物部守屋のお墓を祭る小さな神社。

それを取り囲む全国有数神社の名称を刻む玉垣をみつめていると、一つ一つの神社の由緒と重みが実感されてきて、日本の神道祭祀の奥深さが偲ばれてくるのでした。

物部守屋の奮戦は、日本の歴史に確かに刻まれました。

この地を訪れて守屋のかたくな生き方が、これほどに時代を超えて、ある種の人々の共感を誘うことに打たれます。

日本列島の中央にある諏訪の神体山守屋山(もりやさん)

諏訪湖は日本列島のおへそのような場所です。

その諏訪湖を囲んで、八ヶ岳(2899m)と対岸にある南アルプスの北端が守屋山(1650m)です。

守屋山

この山々に囲まれた諏訪湖の周辺に、旧石器時代から、人々は生活の痕跡を残しています。

そして現在まで、絶えることなく、諏訪湖の恵みを受けて、人々は暮らしを営んできたのです。

 

八ヶ岳で黒曜石が産出することは、大きなパワーになっていたことは確かでしょう。

八ヶ岳と諏訪湖

「縄文時代の都があった」という説もあるほどです。

 

その諏訪地方に居住する人々が、崇めてきたのが守屋山(もりやさん)です。

守屋山を臨むには諏訪湖を隔てて、反対側の八ヶ岳サイドからの眺望が見事です。

守屋山と諏訪湖(右)

現在の諏訪大社上社の前宮・本宮は、守屋山の山麓にあるので、秀麗な山容を臨むことができません。

諏訪大社上社 本宮

むしろ下社の秋宮・春宮の側から眺望できます。

諏訪大社下社 秋宮

現在は「禁足地」にもなっておらず、自由に登ことができます。

諏訪市と上伊那郡高遠町の境にある山です。

それは北アルプスの主峰の穂高岳(3190m)を祭る、安曇野の穂高神社の信仰形態と似ています。

北アルプス(奥)と諏訪湖

穂高神社の本殿からは穂高岳は見えないのです。

前の山々の峰を仰いで、その奥の穂高岳を遥拝します。

山頂はアルプス登山のメッカとして多くの登山客で賑わっています。

守屋山は、穂高岳より標高は低く、知名度はないですが、似たところがあります。

 

俗謡でこのような歌があります。

湖の尾尻が晴れて、守矢山へ雲が上がり、百舌鳥(もず)が鳴くならば、急いで鎌をといで草刈にいくべし

(もう雨にならないので、安心して農作業をするように)

 

諏訪地方の古老の間では「モリヤマサマ」といって敬称をつけて、信仰対象にしていたそうです。

諏訪大社の上社の上壇には、硯石(すずりいし)という磐座(いわくら)が存在し、そこに神が降臨する、と信じられてきました。

ここから奥の山一帯が神体山とよばれ、守屋山へ続いていて、信仰対象になっているのです。

その諏訪信仰の聖地、守屋山の山上に物部守屋(もののべのもりや)の大連(おおむらじ)のお墓と神社があります。

高遠町片倉の古屋敷とよばれる地です。

守屋神社のある古屋敷付近の集落

諏訪氏を頼り諏訪へ落ちのびる守屋一族

以前から長野県の地図を開くと、守屋山の山上に物部守屋神社があることが気になっていました。

日本画家の日香浬先生は『お諏訪さま物語』を書かれたとあって、すでにこの物部守屋神社を参拝したとのことです。

さすがです!

 

お話しをうかがってみると、思っていたよりも、山上の奥宮でなければ、容易に参拝できることがわかりました。

さっそく足を運ぶことにしました。

ヒスイや奴奈川姫、諏訪信仰、物部の心に共感し、ご教示いただけることがうれしいかぎりです(拝)

 

古代の東山道は、伊那谷の高遠町から、守屋山の南を通り、杖突(つえつき)峠を越えて諏訪湖へ通じていたとされます。

その杖突峠を越えるとすぐに、守屋山の南麓に物部守屋神社がありました。

物部守屋神社の森

山上も間近です。

蘇我氏の宗教戦争に敗北した物部守屋一族が、片倉村に落ち延びて、守屋を追慕しながら、この地で代々暮らしたようです。

そして守屋の霊を山頂に祭った、と。

 

諏訪信仰の聖地の守屋山と同じ「もりや」の名前を持ち、その地に慰霊された物部守屋。

……そのいきさつに思いを馳せるのは私ばかりではないでしょう。

そもそもなんで父の物部尾輿(もののべのおこし)は、息子を「もりや」となづけたのでしょうか。

 

『先代旧事本紀』「天孫本紀」を読むと、物部守屋の祖祖父の代に別れた物部氏の系譜に、「物部麁火(もののべのあらかひ)」がいます。

第26代継体天皇の時代に、筑紫の国造の反乱を平定したことで有名な人物です。

その母が「諏訪の直(あたい)の娘、妹子」と見出せました。

諏訪大社下社の大祝家の娘でしょうか。

 

そしてその息子の物部石弓若子(もののべのいわゆみわくご)が、今木の連(むらじ)とあるのですが、一方で守屋の弟の金弓若子(かなゆみわくご)もまた今木の連(むらじ)とあります。

後世の系譜では、婚姻関係の女子が省かれている場合がほとんどです。

おそらくは物部守屋の一族と、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の一族を結ぶ女性の系譜に、「諏訪氏」があるようです。

越(こし)から来られた継体天皇に信頼され、筑紫の国の平定へ赴いた物部麁火(もののべのあらかひ)です。

継体天皇即位の、大きなバックボーンまで、見えてくるようです。

つづく

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