こんにちは!yurinです。
家持が説く大伴氏の栄光の歴史は『古事記』『日本書紀』に記されているだけでなく、奈良時代の朝廷でも認めていました。
目次
命がけの天皇家への奉仕を歌う
『日本書紀』以後の歴史を記す『続日本紀』(797年)に、奈良時代の天平勝宝元年(749)4月、東大寺の大仏へ捧げると共に、一般民衆への宣命(天王の命令を伝える文書)が下されました。
第45代聖武天皇(在位724~749年)は、仏教に深く帰依して東大寺の大仏建立を始めましたが、海外の輸入に頼っていた金の工面に苦慮していました。
そのようなおりに、思いがけず陸奥国の小田郡(遠田郡)宮城県から金が産出し献上されたのです。
喜んだ聖武天皇から宣命が下されたのです。
日本には、金は出ないとされていたので、大きな吉兆(めでたいきざし)とされました!!
各氏族にも位階や昇級が授けられました。
その中で大伴氏の先祖の功績についても語られています。
……大伴・佐伯の宿禰(すくね=天皇のおそば近くに仕える者)は、常々言っているように、天皇の朝廷をお守りしてお仕えすることをいとわずに勤めてきてくれた人たちでした。
あなた方の先祖が言い伝えてきたように、『海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草むす屍(かばね) 大君の辺にこそ死なめ のどには死なじ』
(「海で戦えば、水につかる屍(しかばね)となり、山で戦えば草に埋もれたままの屍(しかばね)となろうとも、大君(おおきみ)のおそばちかくで死ぬことこそ本望です。他の場所で平穏に死を迎えることはありません」このように言い伝えて来た人たちであると聞き及んでいます。そこで遠い先祖の天皇の御代から、今の朕(われ)の御代においても、かわらずに天皇をお守りする側近の兵として、信頼して任せています)
各氏族に金産出に伴う恩恵の位階を授ける中で、大伴氏の先祖をこのように称えました。
佐伯氏は大伴氏の同族とされています。
大伴家持は感激して「陸奥国から金(こがね)を出せる詔書を賀(ほ)ぐ歌」を詠みました(『万葉集』巻18 4094)。
この中でも同じ主旨の内容が呼応しています。
……大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大来目主(おおくめぬし)と 負い持ちて 仕えし官(つかさ)…… 海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍(かばね)……
(大伴氏の遠い祖先が、その名を大来目主(おおくめぬし)と呼ばれてお仕えしたのがお役目でした。海に行けば水に浸かる屍、山を行けば草の中に倒れ伏す屍になっても……)
困難な従軍の中で東国民衆の心を知る
ひとえに天皇や皇族を支えて従軍するといっても、それは“命がけ”のものでした。
運よく統率者は勝利し生き延びても、その犠牲は計りしれないものがあったでしょう。
生き残った統率者とて心の痛みはぬぐいようもないほどであったと思います。
静岡市清水区の久佐奈岐(くさなぎ)神社があります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)・弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)と随行の吉備武彦命(きびたけひこのみこと)・大伴武日連命(おおともたけひむらじのみこと)をお祭りします。
日本武尊に従軍した9万8千人を祭り、9万8千の幣帛を奉納したとされます。
それほどの犠牲があったのでしょうか。
その生死を托した従軍の困難さは大伴家の子々孫々に伝えられ、そうした中で、地方の人々の生活や人情にふれることは多く、助けられ慰められることも数知れずあったとみられます。
そういう家柄に生まれた家持だからこそ、庶民や地域を越えた人々が織り成す『万葉集』という歌集を結晶させることができたと思うのです。
第二次大戦中には『万葉集』が「軍歌」に利用されてしまったこともありました(大汗)。
行き過ぎた古典の利用によるその反動で、敗戦後は『万葉集』の歌を取り上げるに際しても、大伴氏の歴史よりも、抒情的な部分だけがクローズアップされてきたようです。
「高岡万葉歴史館」では、大伴家持の生涯をたどる20分ほどのビデオの中で、大伴氏の歴史と正面から向き合うことから始まっているストーリーが斬新に感じられれました。
その大伴氏の歴史から『万葉集』編纂への道筋をたどることに、とても共感できたのです。
大伴旅人が大宰府で梅花を愛でる宴を催したのも、単に遊興に明け暮れていたのではなく、命がけの地方への従軍の中で、つかの間の生の輝きを楽しみ大切にした時間であったと思います。
高志(こし)の国文学館~大伴家持生誕1300年記念企画展
大伴氏の過去の栄光と苦難の歴史を背負い、現実にも都での政争や地方の平定に明け暮れた大伴家持。
家持は29~34才の間の5年間、越中の国守として赴任しました。
おりしも「平成」から「令和」の時代にかけて、富山県富山市の「高志国(こしのくに)文学館」で「大伴家持生誕1300年記念企画展 響き合う詩歌と絵画」が開催されました。
「高志(こし)」は『古事記』に出てくる表記で、北陸地方を表わす「越(こし)の」古い書き方です。
ネーミングがとても奥ゆかしくステキな文学館です。
新元号「令和」の考案者とされる中西進先生が館長をなされています。
今の上皇さまが来館した時のフォトも展示されていました。
大和で生まれ育った家持が初めて目にする北アルプス立山の大自然、山々から流れ出す清らかな川、富山湾から眺望する雄大な立山、大自然とコラボする身近な藤の花や山吹や鶯の鳴き声……
日本海に面した越(こし)の大自然は家持の歌心を大いに引き出したものであったでしょう!
大伴家の歴史をたどり、家持が越の国に訪れたいきさつを振り返ると、1300年前に編纂された『万葉集』の歌が心にいっそう染み入ってくるようです。
気づけば1300年前に歌われた花鳥風月を実際に目にすることができるのです。
さらに最近はSNSの進化によって、各地の情報が手軽に入手できます。
以前は知る機会が少なった『万葉集』の風景や自然を、直接でなくても身近に味わうことも可能です。
……その一方でどうしても目にすることができなのが「万葉時代の人物」です。
その万葉集に歌われた人物像を再現してもらえるのが「絵画」です。
「響き合う詩歌と絵画」という企画は実に有難く、日本画の先生方の熱心で詳細な考証や感性によって万葉時代の人物像の数々を再現していただいたのは、実にありがたいことでした。
このような試みによって、万葉時代へいっそう近づけたように思えたのです。
奈良県明日香村の万葉文化館からの出展、それも新しい年代の作品が多かったです。
このところ行ってなかったのですが、奈良の万葉文化会館にも足を運んでみようと思いました。
日本画で万葉を描く、という試みはまだ未知数で、特に人物画の進化がとても楽しみです^^
日本中を見回しても考古学博物館がたくさんありますが、文学館はとても少ないです。
文学館を作ると、どうしても「文字」的なものが多くなるので、よほど興味のある向き以外は退屈感も否めないのではないでしょうか?
文学を絵画や写真と組み合わせていくという方法は、文学館の一つの方向性として素晴らしい試みと思いました。
木々や芝生の緑が心地よく配されていて、庭園を眺めながら館内のソファーでゆったり静かに過ごす時間が心地よかったです。