こんにちは!yurinです。
筑紫の国の遠賀川流域は、地域を象徴する山河とともに、天照大神の一族を祭るのが顕著です。
そしてその一族として物部氏の痕跡も濃厚です。
物部氏で一番有名なのが、蘇我馬子との神仏論争の末、宗教戦争で破れて滅んだ物部守屋(もののべのもりや)なのでしょう。
『先代旧事本紀』の物部氏ゆかりの二つの神社とお墓を訪ねて、日本の神道祭祀の歴史と奥深さを感じるのでした。
物部守屋こそ、時代を超えて大きな勝利を得たのでしょうか。
八尾市太子堂の物部守屋の墓の石碑
大阪府八尾市太子堂の住宅街の一角に、ささやかに物部守屋を祭る神社があります。
守屋が戦死したとされる地で、守屋のお墓をお祭りしています。
お墓の前には鳥居がたち、その周囲をぐるりと囲む見事な玉垣の石碑には、なんと!全国有数の神社の名称が刻まれているのです。スゴッ!!
日本全国の神社から寄進されたのでした。
今なおどれほど神社界から感謝されているかを目の当たりにして、あらためていにしえの凄惨な宗教戦争の記憶が蘇ってくるのでした……
『日本書紀』で、第30代敏達天皇の14年、物部守屋大連(もののべのもりやのおおむらじ)は、疫病と国民の困窮は、蘇我氏が受容した仏教によるもの、と申し上げると、天皇も「早速に仏法をやめるように」と仰せになりました。
物部守屋大連は、仏塔を切り倒させて、焼いた。同時に仏像と仏殿も焼き、焼け残った仏像を集めて、難波の堀江に捨てさせた。
しかし、天皇も守屋も疱瘡(ほうそう=天然痘)になり、亡くなる者が国に満ち溢れました。
それで人々は「仏像を焼いた罪だ」とうわさするようにもなり、失意の中、天皇も崩御されてしまいます。
第31代用明天皇もまた病にかかり、「仏法僧の三宝に帰依したい」と仰せになるのですが、物部守屋は、かたくなに反対して、
「どうして国つ神に背いて、他国の神を敬うのか。このようなことは前代未聞である」
と言います。
しかし蘇我馬子大臣(そがのうまこおおおみ)は、
「ご命令に従って協力すべきでしょう」と、法師を内裏に入れてしまった。このなりゆきを物部守屋は、にらみつけて大いに怒った。
と『日本書紀』にあります。
そうした混乱の中で、用明天皇もまた崩御してしまいます。
ついに蘇我馬子は軍兵を集結して、河内の阿刀(あと)の屋敷に退いた物部守屋を急襲しました。
厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)は、四天王像を頭に掲げて
「もし勝たせてくれるなら、必ずや寺塔を建てましょう」
と誓った、とあります。
蘇我氏との宗教戦争に敗れる
戦いは激しさを増した……ついに守屋とその子を射殺した。一族は葦原に逃げ隠れしつつ、そのまま行方不明になってしまった。
物部守屋と蘇我馬子の宗教戦争のおおよそです(大汗)。
物部氏の聖地といえる生駒山の、山麓の両サイドに、仏教寺院が建立されました。
若草山からの生駒山
代表的な寺院が大阪側の四天王寺、いかるがの里の法隆寺です。
それで守屋の戦死地に、聖徳太子ゆかりの「太子堂」の地名も残っているのでした。
「斑鳩(いかるが)の峰」は、物部氏の祖先の饒速日命(にぎはやひのみこと)が、降臨したとされています。
今の生駒山で、その山々には「饒速日山(にぎはやひやま)」の名も伝えるほどの物部氏の聖地でした。
法隆寺は、物部氏の鎮魂の寺院でもあるようです。
『日本書紀』によれば、
守屋の妹は蘇我馬子の妻となり、蝦夷(入鹿とも)を生んだ
とあります。
一方の『先代旧事本紀』では
物部守屋の姪
になっています。
話しを総合すると、物部氏も「神道一色」ではなかったようです。
蘇我馬子と物部守屋の対立だけでなく、新たな宗教の受け入れをめぐって、物部氏の中でも分裂していたようです。
しかも女子も絡んでいて、同族相食む、という陰惨な状況は、昨今のどこかの神社の紛争を想起してしまいます(大汗)
ところが驚くことに『先代旧事本紀』を読むと、なんと!物部氏は決して滅んでいなかったのです。
物部守屋は滅んでしまったものの、兄弟や息子は見事に復活していました(拍手)
大化の改新で守屋一族は復活
はからずも蘇我氏本宗家の滅亡によって、一方の物部守屋の息子の物部雄君(もののべのおきみ)をはじめとする物部一族は復活し、第三十七代孝謙天皇の時代を経て、天智・天武天皇時代に物部氏から石上氏となり、旧名を回復したのでした(拍手)。
物部守屋の兄弟の中で、蘇我氏と姻戚関係を結んだ物部一族だけが、蘇我氏本宗家とともに、むしろ消滅してしまったようなのです。
『先代旧事本紀』では、蘇我氏との宗教戦争にふれることもなく、淡々とその後の物部氏の系譜を記しています。
巻9の第26代継体天皇~第33代推古天皇までの、天皇家の系譜を記した「帝皇本紀」では、仏教を崇拝した聖徳太子の死を悼んで終わっています。
『日本書紀』では詳細に蘇我氏の滅亡が記されます。
物部守屋を滅ぼした勢いに乗った蘇我氏は、ついに第三十二代の崇峻天皇を暗殺、専横を極めます。
しかしはからずも乙己の変によって中大兄皇子、後の天智天皇と藤原鎌足によって、あっけなく命脈を絶たれてしまうのですが、『先代旧事本紀』では、その詳細も記されていません。
『先代旧事本紀』が記された平安時代には、すでに仏教は神道とともに国家の宗教として確固たる地位を築いていました。
その時代に、あえて凄惨な同族内の宗教紛争の歴史を回想するのでなく、過去から現在への物部氏の栄光の歴史こそを書き残したかったのでしょう。
つづく