筑後の歴史の奥深さにふれる旅【1】〜筑後国一の宮高良大社〜

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こんにちは、yurin(ユーリン)です。

今日は、以前参加したバスツアーのお話です^^

3回に分けて、筑後の歴史をお伝えしますね。

1.古代史ファンが集まり「筑後の旅」へ

一昨年の11月に行われた「邪馬台国全国大会in福岡」の翌日に、
河村哲夫先生をガイドとするバスツアー、「筑後の旅」に参加しました。

筑後地方は、『魏志倭人伝』の「邪馬台国」を筑後川流域とすれば、
まさに邪馬台国の一部になりますし、

あるいは「三潴(みずま)」「上妻(かみづま)」「下妻(しもづま)」など、
当地方に目立つ「つま」地名から、「投馬(妻=つま)国」ともされる地域です。

日本の史書では、古く「筑紫の国」であったものが、
七世紀末頃に筑後川を隔てて筑前・筑後に分かれました。

今の福岡県南西部です。

前日の「邪馬台国全国大会in福岡」の400人以上の
聴衆があふれた大会の熱気もさめやらぬ翌朝に、

東京方面からの参加者の中でも、むしろこちらの旅を楽しみにしていた
熱心な古代史ファンが、久留米駅前に集合しました。

地元福岡からの参加者との交流が深まる、貴重な時間となったのです。

2.筑後の霊場の高良山(こうらさん)と祇園山古墳

筑後の霊場としてそびえる高良山(312.3m)のすそ野にある、
久留米市御井町の「祇園山古墳」
では、
「邪馬台国全国大会in福岡」で講演された白木先生の説明がありました。

多くの聴衆を隔てた大会場でなく、
身近でお話を伺えて、古代にいっそう近づいた気持ちです。

祇園山古墳は、弥生終末期から古墳時代初期の時代の方墳で、
東西23.7m、南北22.9m、高さ5m。

祇園山古墳

墳丘に盛り土をして葺石(ふきいし)が施されています。

副葬品は消失していますが、内部の箱式石棺には一面に朱が塗られています。

周辺には、甕棺、箱式石棺、竪穴式石室の古墳などがあり、
60基以上に及ぶ墳墓が確認されています。

高良山を仰ぐこの地域を支配した権力者たちが、
次々と築いた墓所とみられます。

まさに卑弥呼とその一族の墓である、とする見解もあります。

古墳の頂上は、見晴らしいのいいポジションが多いのです。

ここでも、目の前を高速道路が貫通する古墳上に立つと、
筑紫平野を眼下に、はるか遠く博多平野方面までも遠望して、
眠りにつく王者の姿に思いを馳せました……

3.神籠石が語る要衝地の連続性

筑後国一の宮の高良(こうら)大社は、古くは、
水別(みくまり)の神~山から流れ出す水を、各集落へ分ける分水嶺~
として崇められたのです。

「神籠石(こうごいし)」で知られる聖域です。

このような自然神への崇拝に始まり、地域の権力者を人格神として祭り、
さらに大和朝廷の進出にともない、皇族を祭る、など
要衝地での祭祀は「連続性」があります。

『肥前国風土記』によれば、第12代景行天皇は、九州遠征のさいに、
「高羅(こうら=高良)の行宮(かりみや)」を拠点に活動しています。

神籠石は、白村江の戦の後に築かれた「朝鮮式山城」という説もありますが、
神籠石が築かれる地は、地域の要衝地ばかりです。

弥生時代の高地性集落の地は、戦国時代の山城と重なることも
しばしばみられます。

「神籠石」がある地こそ、古代から人々が神祭りし、
その後も、ことあるごとに利用された、
地域の統治者の象徴となった聖域なのではないでしょうか。

山麓には、大社が鎮座する御井(みい)町の起源名となった
「朝妻(あさづま)の泉」が、悠久の昔から変わらずに
清く澄んで湧き出ています。

味御井神社 朝妻の泉

久留米へ来た日に、真っ先に訪れました。

味水御井(うましみずみい)神社が祭られています。

湧水池では水遊びする親子がいました。

筑後の国は、いにしえの「つま国」のように思えるのです。

筑後の歴史の奥深さにふれる旅【2】につづく

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