桃の種年代測定2~3Cから筑紫邪馬台国の勢力拡大と進展を考える

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こんにちは!yurinです。

奈良県桜井市纒の纒向(まきむく)遺跡で出土した桃の種について、放射性炭素(C 14)年代測定結果が、纒向学研究センターの最新紀要で明らかになりました!

*ヤフーニュース(削除されてしまいました)
卑弥呼の時代の?桃の種 年代測定、邪馬台国論争に一石

*毎日新聞
卑弥呼時代のモモの種 邪馬台国、強まる畿内説

西暦135年~230とみられるそうです。

しかし、その桃の種で果たして国家統一のあり方がわかるのかは疑問です。

日本の古典では、筑紫勢力の<再度>の東遷を伝えているからです。

そして、今回年代測定された桃の種からは、饒速日尊(にぎはやひのみこと)と『魏志倭人伝』21か国の広がりも見ることができそうです。

筑紫勢力が再度、畿内へ進出している!

桃の種の年代については、このブログでも書きましたが、結果が発表されるまで、ずいぶん時間!がかかっているので、発表されるとしても、いろいろあるのかな?と拝察していました^^

出雲の荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡が発見されても、埼玉県の稲荷山古墳から銘文入り鉄剣が出ても、古代史オーソリティは、日本の古典の資料的価値を認めないスタンスです。

どんな結果が出ても、またまた一般的には中国文献の卑弥呼や邪馬台国がしばらく出回るものとみています。

 

…ですが、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』など日本の古典から纒向(まきむく)という地を考えると、2~3世紀に遺跡・遺物が出土しても驚くほどのことはないです。

……ですが、それが箸墓古墳の築造年代を確定できるのか、まして卑弥呼の墓である、などは、まったく疑問です。

 

まず『古事記』『日本書紀』を読むと、神武天皇の東遷以前に、饒速日命(にぎはやひのみこと)が畿内へ入っていることがわかります。

そして三輪山周辺には、神武天皇が大和入りしようとした時に、長髄彦(ながすねびこ)に協力する「兄磯城(えしき)」「弟磯城(おしき)」という人物がいたことが記されます。

 

三輪山の周辺の地を根拠にしている抵抗勢力がいたことがわかります。

桃の種を使用していたのは、この勢力かもしれません。

三輪山は出雲の大国主命(大物主命)をお祭りする山なので、まず一足早く大和地方を開拓統治したのは出雲族とみられます。

饒速日命(にぎはやひのみこと)とともに東遷する32神と物部25部

『先代旧事本紀』を読むと、この三輪山周辺で神武天皇に抵抗していた勢力について、さらに詳細な情報がわかってきます。

天照大神と高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)の命を受けて、32神と物部25部を率いて降臨した饒速日命(にぎはやひのみこと)の勢力です。

 

『古事記』『日本書紀』も神武天皇に先んじて畿内大和へ入り、地元の豪族の長髄彦の妹を妻としていた饒速日命(にぎはやひのみこと)を記します。

 

さらに『先代旧事本紀』には、饒速日命(にぎはやひのみこと)と下った人々と一族の名称があります。

そのうち纒向(まくむく)と関係がありそうな人名もあります。

「物部五部(いつとものお)の人」と呼ばれる中に、

「笠縫部たちの先祖 天の勇蘇(ゆそ)」

の名称があります。

「笠縫部」は神祭りのための笠を作る職業集団です。

歴代天皇即位の大嘗祭や伊勢式年祭に菅笠を調達します。

 

三輪山山麓の磯城郡笠縫邑(かさぬいむら=桜井市檜原神社付近)に居住して、神鏡の守護とも係った人々とみられます。

笠縫(かさぬい)は他にも、十市郡飯富郷(笠蕊村=磯城郡田原本町、多神社付近)、大阪府東成郡にも笠縫島があります。

実際に製作した傘で、風雨をよけるばかりでなく、大切なお方や鏡をお守りするSPのような役目をしていたのかも・・・?


川崎日香浬氏「八十人の皇子・皇女」

饒速日命とともに下った物部25部を率いて、特に重要な5部(いつとものお)の人の中に「十市部(とちべ)の首(おびと)たちの先祖富々侶(ほほろ)」の名称もあります。

他にも大阪府池上曽根遺跡・滋賀県野洲市大岩山など、著名な遺跡と関わる物部氏もあげられますが、ここでは省略します。

 

とにかもかくにも纒向遺跡は、出雲氏族、饒速日命の物部氏族など、日本の古典から考察を深めることができる拠点集落なのです。

どの地方にも拠点集落があり、その地は次々と支配者層が交代して治める様子がうかがわれます。

 

そしてついに第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇は、かっての抵抗勢力のあった三輪山山麓に続けて宮を置きました。

畿内の弥生時代の遺跡・遺物について、もっと日本の古典を参照にして「筑紫勢力の再度の進展」という考察を深めて、古代史像を語るべきではないでしょうか。

『魏志倭人伝』の21か国は、九州から出る!

「邪馬台国九州説」ついても邪馬台国の時代に、九州だけに留まる連合国家であった、というよりも、九州からでて、邪馬台国が治める21か国は広がっていた、とも考えられます。

筑紫の勢力は、大陸へ向かうだけでなく日本列島の海岸にそって東へ東へ開拓統治し、進出していたのではないでしょうか。

 

『魏志倭人伝』の21か国のうち、

弥奴(みの)国=三野(岡山県)=美濃(岐阜県)
蘇奴(さぬき)国=讃岐(香川県)
躬臣国(こし)国=(新潟県)

……など、点々と統治開拓を進める国を持っていたようにも考えられます。

(面ではなくて、点です)

 

邪馬台国は九州を出て開拓統治して、本州に勢力を進展し、卑弥呼の時代はまだ九州に都があった……というシュミレーションもできそうです。

 

もし畿内大和に邪馬台国があったとすると、神武天皇の東遷、四道将軍、神八井耳命の一族の進展、倭姫命(やまとひめ)の巡幸、景行天皇と日本武尊の遠征、神功皇后の三韓征伐、倭の五王遣使……各地の古墳の年代や神社伝承……などなど。

果たして総合的に矛盾が少なく整合性のある古代史像の説明ができるでしょうか。

 

日本の国土から出土した遺跡・遺物を、中国文献で解釈して古代史像を構築するだけでなく、日本人としてもっと勉強して知るべきことは、日本全国四方に山積みにあるようです。

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