こんにちは!yurinです。
2019年始めに新春企画として、「古代史日和ブログアワード」を開催しました。
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださった方々に心からお礼申し上げます。
「あなたの心に残ったブログを教えてください!」という企画です。
みなさまのコメントを拝見しながら、ますます古代史愛~♡、古典愛~♡ が盛り上がっています。
お一人ずつの方と語り合い、ささややかなお礼を差し上げたいところですが、今回は4名の方に、寸志をお渡しすることにしました。
本当に皆さまにお渡ししたのですが、恐縮です。ご容赦くださいませ。
目次
ブログを選んだ基準は?
千葉県で生まれ育った私が、縁もゆかりもない遠方の地域について、古典と参考図書、そしてつかの間に足を運んだだけで書いたブログもありましたが、そのブログを心にとどめてくださった遠方の地元の方、という観点で、選ばせていただきました。
古代史日和のブログの中では、物部氏や諏訪のブログが一番読まれているようなのです。
実は、夫の実家が長野県ということあり、長野県関係の参考図書はけっこう持っていますし、足を運ぶことも多かったので、長野県や周辺の記事は安心して書けるブログでした。
それで今回頂戴したコメントの中で、諏訪大社や守矢資料館、物部守屋、黒曜石などの関係のブログは、共感していただけてとてもうれしかったのですが、遠い地域からは外させていただきました(ごめんなさいです)。
そして、もう一つはこのブログを書いていく中で、初めて世間に主張してみた邪馬台国論がありました。
こんなことを言ってしまって、大丈夫かしら?と、不安もあったのですが、そういうブログにも心に留めてくださり、古代史像の構築に何らかの発想をいただいた、という趣旨のコメントを頂戴し、本当に有難く思いました。
もともとは「ブログを書いてみては?」とお声をかけていただき、ここ数年、遠方の方々との触れ合いが増え、拙著を刊行する中で、お礼や不足の思いを伝えたい、ということからの始まりでした。
本では表現できないブログならではの「彩り」を伝えたいという思いもあったのです。
まさか邪馬台国論まで書くとは思ってなかったです。
ですが、古代史日和勉強会で講師をさせていただくうちに、授業では時間が不足して伝えきれないこともでてきました。
このさい、ハッキリと古代像のひな形を提出してみよう!という気持ちになって書いたのが、邪馬台国のブログでした。
ゆかりのない遠方の地のブログを書いて、地元の人はどう思うかしら?
邪馬台国論のひな形を一つ提出してみたけど、全く的外れでなかったかしら?
……など不安な思いで書いたブログに、思いがけずいただいたコメントが有難く、今回はその観点での選択でした。
たとえ批判的なコメントをいただいても、そこからまた論争!によって、古代史像の構築を深めていけるものと思っています。
(ですが皆さま遠慮深くて!?、今回は見当たらなかったです^^)
皆さまの心温まるコメント、古代史像を深くするコメント、ますます古代史愛を高めてくださるコメントをお寄せくださいましたこと、心からお礼申し上げます。
選んでいただいたブログと、お礼のコメントを掲載していきます。
まずは今回寸志をお渡しした4名から。
景行天皇「うきはの宮跡」オリーブそよぐ風景との出会い
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
福岡県うきは市の景行天皇ゆかりの「浮羽島顕彰碑」「若宮八幡」へは、河村哲夫先生にお導きいただき訪れることができました。
天皇の地方への行幸というのは、それこそ明治天皇や昭和天皇、平成天皇でこそ珍しいことではなくなった感がありますが、日本の歴史を通してみると、本当にごく限られた天皇だけの事績です。
ほとんどの天皇は、都の宮殿からでることさえなかったのですから。
つまり、古代において天皇の行幸は、今でいえば一流のスターがやってきたような出来事であったでしょう!
見たこともないような目を見張るいで立ち、威厳ある姿勢、かしずくたくさんの家臣たち……娯楽の少ない、平凡な日常生活が淡々と続く庶民にとって、実にめったにない出来事として、そのありさまを、子々孫々に語り継いだのではないでしょうか?
そのスポットが、さらに時代を経てオリーブ畑になって、実り豊かで平和な風土の象徴になって連綿と引き継がれて現在あるのです。
拠点集落として、連綿と創意工夫をこらして暮らしてきた人々の様子が偲ばれてきて感動しました!
『古事記』『日本書紀』『風土記』と向き合うスタンスは、地方の市町村や都道府県によってかなり相違があります。
しっかりと日本に古典と向き合い、その由緒を大切にして掲示するうきは市の様子を伺い、胸を熱くします。
滋賀県大津市に景行天皇ゆかりの「志賀高穴穂宮神社」があります。
今は小さなお宮ですが、朝、通りがかる人が一例して行き過ぎするのを目にしたことがあります。
境内を清掃している人からは、景行天皇とのゆかりをとても誇りにしているお宮、ということが伺われました。
景行天皇由緒の地への思いは、上から押し付けられたものばかりでなく、住民たちの自然の思いによって継承されていく、との思いを深くします。
うきは市から遠い、千葉県で生まれ育った私が書いた景行天皇ゆかりの地のブログに、地元の方が心に留めてくださり本当にうれしいです。
猫の額のような我が家に、オリーブの木が3本あります。
ガーデニング用の小さな仕立てにしていますが、地中海で見た風景とともに、浮羽島の風景をいつも思い出しています。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
釈迦堂遺跡は縄文前期から奈良時代におよぶ複合遺跡
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
釈迦堂遺跡は、長野への帰省のおりにパーキングエリア隣接の縄文遺跡として、足を踏み入れることができました。
行ってみて驚いたのは、ここが「桃源郷」で有名なスポットであったことです。
もう30年くらい前になりますが、早春に一面に桃の花で彩られた季節に訪れたことがあり、大感動しました!
ミヤマツツジの紫がかったピンクの花が、遠くの南アルプスの残雪に映えて、忘れ難い風景です。
釈迦堂遺跡の入り口の農家で、草餅やおこわを販売しているおばさんは、諏訪市出身のグラフィックデザイナーの原田泰司が描いたほのぼのとした風景とも重なりました。
まさしくその美しい風景の中に、縄文遺跡があったのです!
もちろん当時は、桃の花はなかったのでしょう。
……ですが早春の訪れを告げる芽吹きはもちろん、花の彩りも何かしらあったのでは?と、想像がふくらみます^^
博物館に入ってみると、なるほどこの長い期間の拠点集落として釈迦堂遺跡の豊かさは「水晶」がもたらしたものかもしれない、と思えました。
山梨県は、『古事記』の日本武尊の「酒折宮」をはじめ、ゆかりの銚子塚古墳、縄文晩期の金生遺跡、浅間神社、北口浅間神社……など、感動の場所が次々に思い出されます。
どうもタイミングや流れがあって、いまだブログにしてなくて申し訳なく恐縮です。
『古事記』の造化三神ですが、『先代旧事本紀』では、高御産霊尊(たかみむすひのみこと)は高天の原系の神、神皇産霊尊(かみむすひのかみ)は出雲系の神として具体性があるのですが、天之御中主神はでてこないのです。
太安万侶がなにを根拠に天之御中主神をもってきたのか?
河村先生は、
「奴国の先祖を象徴する神ではないか?」
としていらっしゃいます。
高皇産霊尊・神皇産霊尊がそれぞれ高天原と出雲を象徴する神としたら、奴国の始まりを象徴する神として、天之御中主神を考えてもいいのじゃないかしら?と思ったりします。
福岡県の那珂川町に御中主神社があるようです。
まだ参拝したことはないです。
この難問は、こちらこそいろいろご教示いただけたらと思います。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
心温まるコメントをありがとうございました。
決戦!奴国VS邪馬台国【2】吉野ヶ里・平塚川添遺跡の追憶
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
このたび決戦!奴国VS邪馬台国のブログを心に留めてくださり、とてもうれしく思います。
このブログを書き始めた当初は、このようなテーマの文章を書くことになるとは、思っておりませんでした。
……ブログを書いてみては?とお声をかけていただいた時は、ここ数年、地方の方々とふれあうことが多くなり、お礼の気持ちをこめた文章をかいてみよう、とか、拙著を購入してくださった方々にもプラスアルファの彩りをもっていただけたら、という思いでした。
……それが、書き続けていくうちに、古代史日和で講師をするようになると、勉強会で時間が不足して話せなくなってしまったことや、やはりもう少し踏み込んでブログで書いてみよう、と思うようになって書いたのがこの文章でした。
内容の主旨は、初めて奴国と邪馬台国にふれるひな形の一つに、と思い切って言ってみたので、果たして受け入れてくれる人がいるものか?未知数で不安もありました。
ですから、このブログを心にとどめて、これをヒントにあれこれ古代史像を構築してくださる方がいらっしゃることがわかり、とてもうれしく励まされます。
安本先生も平塚川添遺跡が邪馬台国の遺跡である、とは言っていますが、吉野ヶ里が奴国の遺跡である、とはおっしゃっていませんし。
他に誰も言ってないのではないでしょうか?
北部九州を東と西に分けて考えるヒントをいただいたのは、考古学者の森浩一先生の考察からです。
これについて、次回の勉強会でお話ししたいと思っています。
私と安本先生と違うところは「対馬」の考え方です。
安本先生は、奴国の王族が最終的に逃げた、とおっしゃっていますが、むしろ邪馬台国は、対馬を最重要拠点として沖ノ島ルートを開拓し積極的に統治して、他の九州の豪族たちが私的に大陸と通交できないようにシャットアウトする作戦に出たのではないでしょうか?
そして奴国の王族は逃げ場を失い、志賀島に金印を埋めて滅亡したと……。
確かに対馬は広形銅戈がたくさん出土しますが、一方で邪馬台国のあかしとされる箱式石棺からの鉄器などの出土も顕著です。
『魏志倭人伝』では対馬には「大官」が置かれます。
日本神話の綿積豊玉彦(わたつみとよたまひこ)か、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が、派遣されていたのでは?と考えたりします。
『魏志倭人伝』のストーリーを、日本の古典とすり合わせて、あれこれ妄想を巡らすのは、楽しいですよね。
なんとか矛盾が少なく組み立てられないものか?試行錯誤しています。
スサノオノミコトが朝鮮半島から戻ってきた上陸地点という伝承が、島根県大田市にあります。
「対馬」は「津島」で、愛知県津島市の津島神社ではスサノオをお祭りするのですが、やはり対馬(津島)とスサノオは、関係が深そうです。
おっしゃる通り、一時は小石原川(安川)まで、スサノオが押し寄せたのですから、相当に邪馬台国はピンチです。
奴国と邪馬台国の戦いを意味したという考察に同感です。
この天安河の誓約、ヤマタノオロチ、天の岩屋などの古典のストーリーと、倭国大乱の時系列をどこまで矛盾なく組み立てるか?倭国大乱は、卑弥呼の即位前後の2度あったとみられますし。
すると隈・西小田遺跡は「敗者の村」ともいわれますし、吉野ヶ里も敗北していますが、それは、初めの倭国大乱かしら?
……などなど、『魏志倭人伝』と『古事記』『日本書紀』をどこまですり合わせられるのか?私も妄想をし続けています。
ブログにはここまでは書けない妄想を長々と書いてしまいました。
今後ともどうかご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
深い思索に富んだコメントをありがとうございました。
奴国の都は那珂(なか)川町安徳台
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
那珂川町のことは今からブログに書きました通り、30年以上前に『季刊邪馬台国』で知りまして、ずっと奴国の都があった場所として心に残っておりました。
……それから何十年たって、嘉麻市で講演会をした時に、那珂川町の方が聞きにきてくだっさっていて、河村先生とともに、那珂川町をご案内してくださったのです。
そして「ここはぜひ見て下さい」ということで、安徳台へ連れて行っていただけました。
大感激!でした(大泣)
それははるか遠方の千葉県で生まれ育った私の特別の思いでしたが、その感激の思いをブログにつづったものですが、なんと!地元の那珂川町ゆかりの方が共感してくだったのは、本当にうれしいです。
古代において、特に縄文~弥生~古墳時代の頃までは、現在に一番栄えているところでないところこそ、むしろ栄えていた中心地であったように見られるのです。
現在のように海に近い平野や、河川の下流域は、治山治水が行きとどかない古代には、自然災害に見舞われる危険性が高かったので、安定した集落の形成には不適当であったとみられます。
さらに北部九州での戦いは、当初は海岸近くで行われ、その後内陸に及んできたとされます。
考古学者の関川尚功先生は「海の近くは危ない」とおっしゃっていました。
日本各地を見回しても、古代においてはかなり内陸に入り込んで、中心的な集落があったようです遺構や遺跡があります。
ですから、奴国の都として那珂川町はかなり可能性が高いと思います。
そして拠点集落は重層性があって、その後の歴史の中でも繰り返し利用されるという特色があります。
第37代斉明天皇の岩瀬の仮宮、第81代安徳天皇の宮が置かれた、という安徳台が、いにしえの奴国の都であった可能性は高いのではないでしょうか?
この地から那珂川をさかのぼり、吉野ヶ里へでて、やがてその地を拠点にしていった奴国の一族もいたのではないかと考えています。
那珂川町は、神功皇后ゆかりの作田溝もありますし、山田集落の伏見神社の付近も落ち着いてとてもいいところですね。
深く心に残っています。
今後ともどうか何かとご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
心温まるコメントをありがとうございました。
つづいて、今回ご応募くださった方へのお礼のメッセージを紹介します。
奴国の祭祀を残した住吉神社
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
コメントを頂戴した皆さまに、ささやかなお礼をしたい気持ちでいっぱいですが、全員にはかなわず、本当に恐縮です。
今回は、自分とゆかりのない遠方のスポットゆかりの方からのコメントに、という観点で選ばせていただきました。
どうかご容赦ください。
コメントは、まさしく古代史全体の的を得た深い考察です。
次回にこういう機会がありましたら、そのような観点で選ばせていただきたく存じます。
出雲大社や諏訪大社の例から考えると、大和朝廷が征圧した氏族の祭祀は残っています。
それから考えると『魏志倭人伝』に記された国々の祭祀や神社が残っている可能性は高いように考えます。
そして奴国の祭祀を残したのが住吉神社であろうと、河村哲夫先生が『神功皇后の謎を解く』のなかで、述べていらっしゃるのを読み、本当にスッキリして共感できました。その思いに納得していただけてとてもうれしく思います。
さらにいえば、中国や中近東などの国々は、敵対する相手を徹底的に滅ぼし、一族皆殺し、宗教弾圧などするのがあたりまえです。
一族を滅亡させたと思っても、必ず何世代、何百年後でも、生き残り復讐を果たす、という復讐の連鎖です。
一方で、日本の天皇家は、征圧した氏族の女性と婚姻関係を結び、生まれた子どもに統治権を与えるのです。
そして敵対する氏族の宗教弾圧するのでなく、神職を交代するなどして、祭祀を継承します。
こうしたことから、日本の天皇家は、恨みを買わず125代現存世界最古の王朝として生き残ってきたのだとみられます。
こちらのほうこそ、今後ともどうか何かとご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
深い思索に富んだコメントをありがとうございました。
鏡や矛に鋳直された銅鐸と銅鐸出土地の近くに饒速日尊と下った神々
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
コメントを頂戴した皆さまに、ささやかなお礼をしたい気持ちでいっぱいですが、全員にはかなわず、本当に恐縮です。
今回は、自分とゆかりのない遠方のスポットゆかりの方からのコメントに、という観点で選ばせていただきました。
どうかご容赦ください。
コメントは、まさしく古代史全体の的を得た深い考察です。
次回にこういう機会がありましたら、そのような観点で選ばせていただきたく存じます。
『魏志倭人伝』と考古学だけでなく、『古事記』『日本書紀』という古典によっても、どこまでその情報をすりあわせられるのか?
困難であっても、日本全国に渡り、あまりに次々にいろいろなものがでてくるので、古代史や古典が楽しくて仕方ないという日々です^^
その思いに共感してくださりとてもうれしく有難いです。
出雲~吉備~卑弥呼の関係については、スサノオミコトの系譜にヒントがあるのではないでしょうか?
スサノオの妃は、出雲の大山津見神(おおやまつみのかみ、大山祇神)の子のアシナヅチ・テナヅチの娘の稲田姫が有名です。
一方で『古事記』を読むと、さらにスサノオは大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘の神大市比売(かみおおいちひめ)を妃として、子孫が生まれています。
実は、この大山祇神こそ瀬戸内海の要衝に君臨する愛媛県今治市大三島の大山祇神社の祭神です。
大山祇神社の総本社とされ、後世に朝廷から「日本総鎮守」とされました。
つまりスサノオは、瀬戸内海の大山祇神を祭る勢力と姻戚を結び、取り込んだことで、瀬戸内海の平型銅剣、出雲から吉備の鉄文化、淡路島も掌握したのではないでしょうか。
因みに大山祇神は、イザナキノミコトの子とされますから、もともとはイザナキノミコトの勢力範囲であったのでしょう。
天照大神の時代の筑紫勢力に先んじて、瀬戸内海から畿内を掌握したとみられます。
やがて大国主命が継ぐことになる統治権の領域は、スサノオの時代に確立していたのではないでしょうか?
一方で、筑紫の勢力も負けていません。
天照大神の孫のニニギノミコトはやはり大山祇神の娘の木花開姫(このはなさくやひめ)を妃にします。
この妃は地名から南九州だけに目がいきがちですが、実は大山祇神は、瀬戸内海から南九州の隼人族方面にもかかわる大勢力であったとみられます。
愛媛県の大山祇神社では、木花開姫(このはなさくやひめ)や姉の石長媛を祭り、隼人舞の像なども奉納されています。
畿内の摂津三嶋の三島鴨神社なども、出雲と大山祇神の結びつきを考えさせるものです。
こうしたスサノオやニニギノミコトと婚姻関係を結んだ瀬戸内海の大勢力の大山祇神を祭る氏族の系譜や動向を考慮して、吉備~出雲~筑紫などの考察を深めたらいかがでしょうか?
……などなどブログにまで書けないことを書いてみました。こんなふうに、私も試行錯誤を続けています。
今後ともどうかご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
深い思索に富んだコメントをありがとうございました。
物部守屋の子孫を祭る諏訪の古墳
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
コメントを頂戴した皆さまに、ささやかなお礼をしたい気持ちでいっぱいですが、全員にはかなわず、本当に恐縮です。
今回は、自分とゆかりのない遠方のスポットゆかりの方からのコメントに、という観点で選ばせていただきました。どうかご容赦ください。
諏訪大社や守矢氏。「諏訪がわかれば日本がわかる」の言葉どおり、長年、深く惹かれるテーマでした。
もし次回このような機会がありましたら、私の古代史を深めてくれた場所、という観点で選ばせていただきたく存じます。
千葉で生まれ育ったので、安房神社や鹿島・香取という東国屈指の大社もありますが、一方で山への憧れも大きくて、諏訪大社や戸隠神社には、少女の頃から家族で訪れてから、ずっと心ひかれるスポットです。
特に守矢資料館を訪れてから、諏訪信仰の奥深さを、さらに物部守屋とのゆかりを知ってからは、日本の歴史が連綿と織り成す1本の糸のような流れを感じています。
実は私が書いたブログの中では、物部守屋の関係のものが一番読まれているようです。
ですが、こうしてコメントを頂戴し、その思いを具体的に伺うことができまして、とても有難いです。
混沌して現代に、日本古来の神道祭祀の殉じた物部守屋に共感する人たちが増えているのでしょうか?
2,30年前には、考えられないような、古代史の流れがあるようです。
神社やパワースポット・ご朱印ブームなどいわれますが、やはり日本人の根源的な信仰は、諏訪地方を希求していくのかしら?と思ったりします。
ブログでは、やはりオフィシャルにしか書けない部分があります。
コメントを読ませていただき、諏訪への深い思いに共感してくださるのが、とてもうれしく思います。
今後ともどうか何かとご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
諏訪や守矢氏へのコメントをありがとうございました。
ミシャグジ神を祭る神長官守矢氏
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
コメントを頂戴した皆さまに、ささやかなお礼をしたい気持ちでいっぱいですが、全員にはかなわず、本当に恐縮です。
今回は、自分とゆかりのない遠方のスポットゆかりの方からのコメントに、という観点で選ばせていただきました。どうかご容赦ください。
諏訪大社や守矢氏。「諏訪がわかれば日本がわかる」の言葉どおり、長年、深く惹かれるテーマでした。
もし次回このような機会がありましたら、私の古代史を深めてくれた場所、という観点で選ばせていただきたく存じます。
千葉で生まれ育ったので、安房神社や鹿島・香取という東国屈指の大社もありますが、一方で山への憧れも大きくて、諏訪大社や戸隠神社には、少女の頃から家族で訪れてから、ずっと心ひかれるスポットです。
特に守矢資料館を訪れてから、諏訪信仰の奥深さを感じています。
諏訪大社前宮の水眼(すいが)の清流も心洗われるスポットです。
神長官は、諏訪の人々から、親しみを込めて尊崇されているのですね。
神長官は、今は女性の守矢早苗氏でしょうか。
ある年の御柱祭の時、諏訪の人たちと交流する機会がありまして、「あの神主さんは、地元の人じゃないから、よく知らないのよね」などの言葉も思い出します。
諏訪大社に継承されてきた祭祀は、どうみても古墳・弥生時代のものでなく、縄文時代に遡る悠遠さを思わせるものが顕著です。
春夏秋冬、諏訪へ訪れたいと思うくらいです。
神社やパワースポット・ご朱印ブームなどいわれますが、やはり日本人の根源的な信仰は、諏訪地方を希求していくのかしら?と思ったりします。
ブログでは、やはりオフィシャルにしか書けない部分があります。
コメントを読ませていただき、諏訪への深い思いに共感していただきとてもうれしいです。
こちらこそ今後ともどうか何かとご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
心温まるコメントをありがとうございました。
旧石器時代から黒曜石を使っていた日本人
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
コメントを頂戴した皆さまに、ささやかなお礼をしたい気持ちでいっぱいですが、全員にはかなわず、本当に恐縮です。
今回は、自分とゆかりのない遠方のスポットゆかりの方からのコメントに、という観点で選ばせていただきました。
どうかご容赦ください。
黒曜石のブログに共感してくださりとてもうれしいです。
もともと古典を探究していく中で、弥生時代の記憶が伝わっていると知っただけで、驚いた当初でした。
さらに縄文時代にさかのぼり、ついに旧石器時代にまではいりこんでしまいました!
黒曜石の専門でも何でもないのですが、『古事記』に記された「諏訪」の悠遠の歴史に限りないロマンを感じます。
なにしろ黒曜石は美しく、その産出地や集積地周辺の自然は雄大で美しいです。
八ヶ岳を中心に清々しく心が洗われるようなスポットが散在し、春夏秋冬朝昼晩晴れたり霧がかかったりで、趣きが変化し、何度でも訪れたくなります。
こういう大自然の中での人々の営みに思いを馳せるのが、なんか楽しいのです。
そしてまたまた一転して能褒野ですか^^
あそこも弟橘媛(おとたちばなひめ)の生誕地の忍山(おしやま)神社があり、倭姫命の巡行地と重なり、限りないロマンを感じます。
日本の古典のテリトリーの広さはスゴイです!古典にかかわるいろんなものがあり過ぎて困ってしまいますね^^
今後ともどうか何かとご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
心温まるコメントをありがとうございました。
四道将軍とは?地方に遠征して大和朝廷の基盤を築いた人たち
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
コメントを頂戴した皆さまに、ささやかなお礼をしたい気持ちでいっぱいですが、全員にはかなわず、本当に恐縮です。
今回は、自分とゆかりのない遠方のスポットのブログに共感してくださった方、という観点で選ばせていただきました。
どうかご容赦ください。
武渟名川別命が九州まで足を運んだというのは、耳にしたことありましたが、具体的な神社を教えていただきありがとうございました。
第14代仲哀天皇の時代ですと、第8代孝元天皇の皇子の大彦命の子が武渟名川別命ですから、第9代開化天皇、第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇、第13代成務天皇そして第14代仲哀天皇と、およそ6代の天皇に仕えたことになります。
それもないとはいえませんが、武渟川別命の子孫ではないでしょうか?
子孫の業績を有名な祖先で表すことは、しばしば古典に出てきます。
『先代旧事本紀』では、「筑紫の国造」に「第13代成務天皇の時代に、阿倍臣と同じ先祖の大彦命の五世の子孫の日道命(田道命?)を国造に定めた」とあります。
直方市の剣神社は、第8代孝元天皇の子孫の田道命(日道命?)がお祭りした、という由緒があるそうです。
いずれにせよ、第八代孝元天皇からわかれた子孫が大彦命、武渟名川別命、武内宿祢なので、筑紫の国にこれらの一族が根をおろしているのが、わかってきました!
ご教示いただいた黒男神社の伝承から、武内宿祢と武渟名川別命も、大変にゆかりが深いことがわかりました。
これらの一族から、後年の筑紫国造の磐井につながる人物がでてくるのでしょうか?興味は尽きないです。
貴重な地元の伝承をありがとうございました。
今後ともどうか何かとご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
本の裏話 幻の継体天皇像
日頃から拙ブログにお越し下さり、さらにこのたびコメントをお寄せくださいましたことに心からお礼申し上げます。
コメントを頂戴した皆さまに、ささやかなお礼をしたい気持ちでいっぱいですが、全員にはかなわず、本当に恐縮です。
今回は、自分とゆかりのない遠方のスポットのブログに共感して下さった地元の方、という観点で選ばせていただきました。
どうかご容赦ください。
『先代旧事本紀現代語訳』に継体天皇像を挿入できなかったのは、時間がたつほど後悔が深まり痛恨の思いでした(大泣)
……ですが、せめてブログに書くことで、神社関係者、購入してくださった方々、安本先生にお詫び申し上げられて、少しだけ肩の荷がおりたのでした。
そしてそのお詫びのブログに、まさかの共感者があらわれてくださり、これほど有難いことはなかったです。
恐縮してしまいます。
……そして、こんなことがあるのかしら?と、驚いたのですが!、昨年12月に『先代旧事本紀現代語訳』を出した出版社からご連絡をいただき、今年初めに『先代旧事本紀現代語訳』の第5版を出すことになりました。
刊行5年で5版になったので、改訂して継体天皇の像と足羽神社のフォトを挿入してもらえることになったのです。
夢を見ているようで、信じられない気持ちです。
まさか安本先生がお元気なうちに(20年先に改訂してもらえれば有難い、と思っていたほどなので)、継体天皇像入りの『先代旧事本紀現代語訳』を出せるなんて、思ってもみないことでした(大涙)
2019年1月中に、印刷が仕上がるそうです。
人生には本当に思ってもみない予想外なことが起こる、と有難く思いました。
足羽神社の馬来田(うまくた)宮司にもお持ちしたいです。
おっしゃる通り継体天皇像は、一見するとローマ彫刻のような洗練された雰囲気ではないのですが、心にどっしり入り込んでくる忘れ難い像ですね。
福井の民衆が石を彫って足羽山へ像を引き上げたそうです。
これまた感動モノの話しです。
決して上からの押し付けでなく、民衆に愛され尊敬される天皇家のご先祖さま、実に誇らしいです!
今後ともどうか何かとご教示いただくとともに、よろしくお願い申し上げます。
心温まるコメントをありがとうございました。
最後に(kaoriより)
いつも古代史日和のブログをお読みいただき、ありがとうございます。
管理人のkaoriです。
2019年新春企画としてブログアワードを開催し、これだけの方にご応募いただきました。
ありがとうございます!
年始から読者の方の古代史愛に触れることができ、感激しました。
本当にありがとうございました。
これからも古代史日和のブログをよろしくお願いいたします。