諏訪大社摂社の御射山(みさやま)神社【1】

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こんにちは!yurinです。

日本列島の古代聖地の阿蘇と諏訪。

その要衝地を、しっかりと神武天皇皇子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫たちは統治してきました。

そうした観点からも、阿蘇神社や諏訪大社の探究は大切なことと考えます。

諏訪大社の摂社の御射山(みさやま)神社は、諏訪信仰の聖地の一つです。

そこに越(こし)の奴奈川(ぬなかわ)姫と神功皇后がお祭りされています。

諏訪大社の最高神官の大祝(おおほうり)の御狩場

諏訪大社の摂社御射山(みさやま)神社は、諏訪大社上社と諏訪湖の対岸の、東方13キロ、八ヶ岳山麓にあります。

八ヶ岳

御射山(みさやま)神社

諏訪郡原村と富士見町にまたがる広大な社地は、明治期から第二次大戦後に次第に縮小されたといえ、今もなお往時の面影を伝えています。

別名原山です。

ペンション村の草分けとして名高い「原村」の名で知られます。

すぐ隣が茅野市で尖石遺跡のある蓼科(たてしな)で、現代人が望む美しい高原の風土です。

 

諏訪郡富士見町指定史跡の掲示板には次のようにあります。

ここに鎮座する御射山社は、建御名方命(たけみなかたのみこと)国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祭神としている。

中世には、この社のある通称原山の一帯は、神野(こうや)と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。

それは秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに実るように祈願する〔風祭り〕の意義をもつものであった。

太字:古代史日和

 

今は、諏訪大社いえば「御柱祭」で知られますが、「御射山祭」もまた大祭として知られ、諏訪の認知度を高くしたのでした。

御柱祭は7年に1度ですが、こちらは毎年です。

ススキがゆれる秋の御射山祭

広いすそ野の原野は、神野(こうや)と呼ばれ、諏訪明神の御狩場とされてきました。

原野にモミの木がそびえる森の中に、簡素な社殿がいくつか立っています。

諏訪明神の象徴である上社の大祝は、神長官以下の五官の神官や氏子を引き連れて神野に入ります。

 

そして茅萱(ススキとされる)の穂でふいた穂屋(仮屋)に、祭りの期間中は潔斎して籠り、山宮の神霊に対して、おごそかな祭事と御狩(みかり)の神事を行いました。

 

尾花ふく 穂屋のめぐりのひとむらに しばし里ある秋の御射山

『玉葉集』下社大祝金刺盛久

(ススキの穂が見渡せる季節になりました。その穂であしらえた仮のすまいの周囲に、ひととき里人が集い、御射山祭りが行われて、なんとも秋を感じさせます)

 

1183年、源(木曽)義仲(1154~1184)が、平氏追討のため北陸道を上洛しました。


富山県小矢部市  埴生護国八幡宮

最有力武将であった下社大祝の金刺盛澄(神八井耳命の子孫)は、娘を義仲に嫁がせていました。

孫娘も生まれて、義仲と親子関係でした。

弓馬の術に優れ、武勇も高かったのです。義仲軍にはなくてはならない武将です。

 

ところが福井県での戦いの最中に、なんと下社の御射山神事のために、弟の光盛に陣中指揮を任せて帰国したのでした(汗)!

義仲上洛という大事にあたり、それでもなおかつ諏訪大社の神事のために帰国する、というのは、いかに御射山祭が重要な神事であったか知られます。

さらに時代が下った中世になお祭政を掌っていた、諏訪大社の大祝の実体も伝わってきます。

 

因みに金刺盛澄は、義仲の失脚滅亡とともに、頼朝にとらわれましたが、梶原景時の助けで得意の流鏑馬を披露して許されました。

こうした逸話が『諏訪大明神絵詞』(1356年、諏訪円忠。神社縁起)に記されます。

武士や芸人が集う全国に知られる大祭

上社の神事を中心に行われる御射山祭は、室町時代頃まで、信濃国の地頭御家人(幕府の役人)が担当補佐して盛大に営まれ、全国に知られる大祭になっていきました。

上社とは別に、下社では霧ケ峰高原に御射山社(旧御射山社という)があります。

そこには土壇の桟敷席が設けられて、鎌倉幕府の武将たちが御狩神事の参拝に訪れたそうです。

桟敷席には、朝廷からの勅使桟敷・北条殿・和田殿・梶原殿……など歴々の名族が連なります。

 

武士たちは勇壮な鷹狩・弓技・相撲などを諏訪明神に奉納し、諸国の人々がこの祭りに集い、芸人たちも諸技を競いました。

先に述べた頼朝の敵方になった金刺盛澄でしたが、諏訪大社の大祝が、祭政に関与し、弓矢の名人として実力も兼ね備えていたことが伺われるのです。

諏訪大社大祝の祭事の弓

守矢資料館にて※許可を得て掲載しています

こうして諏訪大社は、中世に鎌倉幕府のご加護も受けることができたのです。

 

鎌倉時代も後半になって、「元寇」の危機にさらされる国難が襲われます。

そうしたおりに鎌倉幕府は、諏訪大社の建御名方の神を、日本一の軍神としてご加護をいただくほどになっていたのでした。

原始信仰の聖域を感じさせる場所にたくさんの祭神

諏訪郡富士見町指定史跡の掲示板に書かれた祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと)国常立尊(くにのとこたちのみこと)でした。

八ヶ岳山麓の広大な林の中に、簡素な本殿があり、二柱の神がお祭りされています。

祭事の時に、神霊が諏訪大社上社からうつされます。

 

その建物の奥に、穂屋らしき建物があります。

祭事のおりに利用されるようです。

その近くに玉籬(たまがき)に囲まれて、苔むした磐座(いわくら)とともに石の祠(ほこら)が祭られていました。

なんとも原始信仰の聖域を感じさせる一画になっています。

4つに区切られた区画のそれぞれに、神様がお祭りされています。

 

穂屋を右手にして、中央の社は大四御盧社(おおよつみほしゃ)と呼ばれ、もっとも大切にお祭りしている社とされます。

大国主命・建御名方命・事代主命(ことしろぬしのみこと)・下照姫の親子をお祭りします。

それぞれ母(大国主命の妻)が違う御子たちです。

事代主命 母:湍津姫
建御名方命 母:奴奈川姫
下照姫 母:田心姫

田心姫(たごりひめ)の子の下照姫が祭られているのに、味耜高彦根(あじすきたかひこね)をお祭りしないのはなぜでしょうか?

 

大四御盧社(おおよつみほしゃ)の左側に、初代大祝有員(ありかず)の社、沼河姫の子安社、神功皇后(息長足姫命)の社がお祭りされていました。

『先代旧事本紀』にだけ沼河姫と建御名方命の母子関係

『古事記』には、出雲の大国主命が、越(こし)の沼河姫(ぬなかわひめ=奴奈川姫)を妻問いした話が書かれています。

大国主命の御子の建御名方(たけみなかた)は、出雲の国譲りに抵抗し、高天の原の武甕槌神(たけみかづちのかみ)に敗れ、科野の洲羽(すわ)の海(湖)に逃れました。

そしてここから出ない、という約束で許された、とあります。

……ですが、建御名方の神の母が、奴奈川姫であることはいっさい書かれていません。

 

『先代旧事本紀』にだけ母子関係がはっきり記されています。

巻四の「地祇本紀(くつかみのもとつふみ)」に、大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)の系譜に、

高志(こし=高志)の沼河姫(ぬなかわひめ=奴奈川姫)を妻として一男がお生まれになった。
御子建御名方神(たけみなかたのかみ)は、信濃の諏方(すわ=諏訪)の郡(こおり)諏方(諏訪)神社に鎮座される

出雲の大国主命と、越の沼河姫(奴奈川姫)の子が建御名方で、諏訪大社の祭神になっていることが、はっきりと記されています。


新潟県糸魚川市駅前海望公園(旧市役所)

このように『古事記』『日本書紀』には、ハッキリと記されていなく、『先代旧事本紀』にだけ記される、建御名方と沼河姫の母子をお祭りするのです。

さらに神功皇后と国常立尊などは、どの古典にもなく、息長氏の氏神の山津照神社を知り、初めて関係がわかる神さまです。

……ですが、こうしてこの諏訪の御射山にお祭りされているところに、実に古い由緒と真実味を感じさせるのです。

なかなか後世の人たちの都合で、祭神を入れたりするのは難しい神域ではないでしょうか?

 

『先代旧事本紀』は、物部氏の後裔の人物によって編纂されました。

諏訪大社の神職の神長官の守矢家には、物部守屋の子が養子に入った、と伝えられます。

そういう経緯から、物部氏は、諏訪大社の歴史を詳しく知っていて、書き残したものとみられます。

つづく

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