東国の守護神 鹿島神宮・香取神宮【3】

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東国の守護神 鹿島神宮・香取神宮【2】のつづきです。

『常陸国風土記』の「天の大神社」「坂戸社」「沼尾社」の3社

さらに『常陸国風土記』には、鹿島神宮の創祀に関して、次のような記述があります。

「香島(鹿島)郡」の条です。

難波の長柄の豊前(とよさき)の大朝(おおみや)に馭宇(天の下しらしめしし)天皇(すめらみこと)のみ世、己酉(つちのととり)の年、

(略) 下総の国、海上(うなかみ)の国造(くにのみやつこ)の部内(くぬち)、軽野(かるのより南の一里と、

那賀(なか)の国造(くにのみやつこ)の部内(くぬち)、寒田より北の五里(いつさと)とを割(さ)きて、別(わ)きて神の郡(こおり)を置きき。

そこにいませる、天の大神の社(やしろ)・坂戸の社(やしろ)沼尾(ぬまお)の社(やしろ)三処(みところ)を合わせて、惣(す)べて香島の天の大神という。

よりて郡(こおり)に名づく。

(太字:古代史日和)

(第36代孝徳天皇の時代、大化5年(645)、
 
……下総(千葉県)の国の海上(うなかみ)の国造の領地(千葉県東北部から茨城県南東部付近)のうち、軽野(茨城県神栖市神池(かみすしごうの池付近)から南の一里(律令制の地方行政区画、50戸)と、
 
那賀(なか)の国造の部内(くぬち)、寒田(さむた)から北の五里(いつさと、250戸)を分割して、「神の郡(こおり)」を置いた。
 
そこに鎮座される、天の大神の社(やしろ)・坂戸の社(やしろ)・沼尾の社(やしろ)の三社を合わせて「香島(かしま)の天の大神」という。
 
そこから郡(こおり)の名称になった)

『常陸国風土記』では、香島(かしま)郡の設置の由緒が記されて、「天の大神の社」「坂戸社」「沼尾社」の3社をあわせて、「天の大神の社」としたとあります。

坂戸社(鹿嶋市)

沼尾社(鹿嶋市)

「天の大神の社」の元宮になった神八井耳命の子孫ゆかりの大生(おお)神社

下総国の海上(うなかみ)の国造と、常陸の那賀(なか)の国造の領地からそれぞれ分割して、「香島(鹿島)の神郡(かみのこおり)」を設置したとあります。

下総国の海上(うなかみ)の国造の領地が、今の茨城県に及んで、かなり広範に及んでいたことがわかります。

神郡は、神社の所領地とされた郡です。

奈良時代の初期は以下の通りです。

伊勢の度会郡・多気郡 → 伊勢神宮

常陸の鹿島郡 → 鹿島神宮

下総の香取郡 → 香取神宮

安房の安房郡 → 安房神社

出雲の意宇郡 → 出雲大社

筑前の宗像郡 → 宗像大社

平安時代以後に次第に増加しました。

 

「天の大神」「坂戸社」「沼尾社」の3社についても、創立年代、どの社を指すか?祭神なども見解が分かれますが、一般的には、次のようにいわれます。

天の大神の社 → 茨城県潮来市大生 大生神社 健御雷之男神(武甕槌神)

沼尾社 → 鹿嶋市田野辺 経津主神

坂戸社 → 鹿嶋市山之上 天児屋根命 

大生(おお、おう)神社は、神武天皇の皇子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫の太(おお)氏ゆかりの神社です。

大生神社(茨城県潮来市)

『常陸国風土記』の行方郡の段には「建借馬命(たけかしまのみこと)」の活躍が記されます。

『先代旧事本紀』では「仲(那賀)の国造」と記されます。

「建借馬命(たけかしまのみこと)」は『阿蘇氏系図』にも出てきます。

 

そして地元の茨城県には、ゆかりの神社や古墳が残っています。

大生神社周辺の前方後円墳

タケカシマノミコトの「かしま」は、この地のゆかりの地名になっています。

つまり「建借馬命(たけかしまのみこと)」は、『古事記』『日本書紀』からは記載がもれていますが、『常陸国風土記』『先代旧事本紀』『阿蘇氏系図』に記されます。

 

地元にもしっかりと神社や古墳の伝承に残っています。

東国の開拓統治にたずさわり、鹿島神宮の創建にかかわった人物として、伝承されてきました(大拍手)

鹿島神宮本殿

タケミカヅチの神は、東国に勢力をふるう星神を平定

さらに鹿島神宮を参拝してから、古典を再認識したこともあります。

それは『古事記』にはなく、『日本書紀』にチラリと書かれた神さまです。

武甕槌神は、出雲の国譲りの後に、はるばる東国に赴いたのです。

それは高天の原の勢力に抵抗して、東国に勢力をふるう香香背男(かがせお)を討伐するためでした。

 

『日本書紀』で神代の記述は、はるか古代のことなので、いくつか各氏族の別伝があると、それも捨て去らずに「一書にいわく」という形で、この香香背男(かがせお)について掲載しています。

ここにチラリと出てくる天香香背男は、天上界の悪神として、あっけなく成敗されたものとほとんど忘れるくらいの神さまでした。

 

ところが、鹿島神宮の冊子を読んでみますと、武甕槌神がはるばる東国の鹿島の地へやって来たのは、このカガセオの大勢力を平定するためであった、というではありませんか!

鹿島神宮の本殿の前の摂社に、高房神社があり、建葉槌神(たけはづちのかみ)が祭られています。

鹿島神宮本殿前の建葉槌命を祭る社

この神さまこそ天香香背男(かがせお)の討伐に活躍したそうです。

 

本宮参拝の前にこの社に参拝する古例があるそうです。

天香香背男(かがせお)はよほどの勢力であったように思われてきました。

 

そして『先代旧事本紀』巻3の「天神本紀」には、饒速日命とともに下った三十二神の中にその神名がありました!

この神の足跡をたどると、福岡~京都~名古屋~富士宮~常陸と、強大な勢力もうかがわれてきたのです。

最終的に茨城県の日立市の大甕(おおみか)神社の地に、お祭りされています。

大甕倭文神社(日立市)

香香背男を祭る大甕神社(大甕倭文神社内)

「甕星香香背男大拝」の額板

天香香背男(かがせお)の討伐に活躍した建葉槌命も大甕神社にお祭りされています。

建葉槌命を祭る奥宮(大甕山の奥宮)

それについては、また別の機会にお話したいと思います。

出雲の大国主命の勢力なのか、饒速日命の勢力なのか、とにもかくにも、武甕槌神をてこずらせるほどの東国の大勢力であったようです。

悠久の自然の中の鹿島神宮から日本の歴史を

大きな赤い橋の先に、鳥居が海の中に立っています。

鹿島の神は、出雲の稲佐浜で国譲りの談判をしたとおり、勇壮な海軍を率いる神さまとしての神事もあります。

その水辺から少し入ると、太古の巨杉がそそり立つ神域です。

お正月から1週間後の休日の境内でしたが、大勢の参拝客で賑わっていました。

 

杉の巨木の神域の森は、奥深く森閑として、人々の喧騒に揺らぐこともありません。

鹿島の神のお使いは鹿です。

鹿苑を過ぎると、まもなく奥宮があります。

 

奥宮には、参拝客が並んでいました。

社殿は徳川家康が、関ヶ原の戦勝した御礼に、本宮として創建したもので、14年後に新たな社殿を建てるさいに、こちらへうつしたものです。

武甕槌神の荒魂(あらたま)を祭ります。

神道では、同じ神さまでも荒々しい魂(麁魂)と、穏やかな魂(和魂、にぎたま)がある、という考えがあります。

別々の宮にお祭りします。

 

奥宮のさらに奥に「要石(かなめいし)」があります。

氷山の一角のように、少しだけ地表にでています。

この石によって、地震が起きないように、鯰(なまず)を抑え込んでいる、といわれてきました。

ナマズを押さえるタケミカヅチの神

東日本大震災の後は、香取神宮の「要石」とともに、参拝客は増えているようです。

 

奥宮から坂道を下ると、御手洗池(みたらしいけ)があります。

古くはこちらの方から境内に入り、ここで禊(みそぎ)をして参拝したそうです。

透明な湧水地で、美しい赤や金の錦鯉が、気持ちよさそうに泳いでいます。

岩から流れ出る清水で、手や口を濯(すす)ぎます。

深く青い水の色が神秘的なものを感じさせる空間です。

 

ここは広場になって茶店があり、参拝客がほっと一息いれています。

草餅~みたらし~吉備団子の三色団子が美味でした!

…………

おりしも先ほどのNHKのニュースで、年始の大寒禊(だいかんみそぎ)が施行され、報道されていました。

180人の男女が、極寒の!凍るような池に浸かり、禊(みそぎ)をしています。

インタビューに答えて「くせになりますね」と、笑っているご婦人がいらっしゃいました。スゴッ!!

……関東に居住するものとして、周辺の関連神社を含めて、何度でも訪れたいと思う、悠久の歴史を感じさせる神社です。

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