こんにちは!yurinです。
東国鎮守の軍神の武甕槌神(たけみかづちのみこと)は、鹿島神宮に鎮座されています。
鹿島神宮の伝承ではさらに、タカミカヅチの神は、ここにとどまらず北を目指した、とされています。
はるばる東国に遠征した日本武尊(やまとたけるのみこと)には、先達がいました。
目次
タケミカヅチ、フツヌシを先導した塩土老翁(しおつちのおじ)
『新鹿島神宮誌』では、鹿島に武甕槌大神の陵墓と伝える場所がないことから、
進取の御精神により、開拓の終わった後、どこかへすすまれたのではないかと思われる。
遠く宮城の鹽竈(しおがま)神社に御神跡のあることからも、広い天地を目指されて更に進まれたことが感じられる。
(太字:古代史日和)
と、あります。
子孫を鹿島に残し、タケミカヅチはさらに北を目指したのでしょうか。
ロマンがありますね^^!
宮城県塩竃市の鹽竈神社の伝承では、そのタケミカヅチ・フツヌシの二神を先導したのが、塩土老翁(しおつちのおじ)とされています。
塩竈市の鹽竈(しおがま)神社には、武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)・塩土老翁(しおつちのおきな)をお祭りします。
鹽竈神社 右宮左宮(塩竈市)
鹽竈神社 別宮
また境内の社殿の東側に接して志波彦(しわひこ)神社の社殿があります。
実は面白いことに『延喜式』神名帳の「宮城郡」の名神大社になっているのは「志波彦神社」の方です。
鹽竈神社は『延喜式』に記載されていません!
志波彦神社は、明治時代に仙台市宮城野区から遷座したそうです。
志波彦神社の祭神は志波彦大神です。
鹽竈神社の御祭神に協力した神さまとも、地元の神さまともいわれます。
奈良時代から平安時代にかけて、多賀城(宮城県多賀城市)~胆沢(いさわ)城(岩手県奥州市)~志波(しわ)城(岩手県盛岡市)と大和朝廷の城柵が築かれます。
志波彦神社は、志波城のシワにも因んで、みちのくの勇者を祭ったものでしょうか。
百人一首の藤原定家が読んだ藻塩焼と「塩竈(しおがま)」
塩竈市や鹽竈神社の「しおがま」の表記は、ちょっと見慣れないですよね。
それについてひとこと説明しておきますね。
「鹽」は「塩」の旧字体です。
「竈」は「かまど」の意味です。
土や石などで囲んで、上に鍋や釜をかけ、下の穴に薪(まき)を入れて火をもやし、煮炊きをする設備です。
まだ子供時代には、祖父母の家には竃(かまど)がありました。
薪(まき)をくべて、赤々とした火を見つめていた記憶があります。
竃(かまど)は神聖なところとされ、祖先崇拝につながり家の単位になります。
ふつうは屋内の土間に設置されますが、持ち運びできるタイプもあるそうです。
そして「塩竈(しおがま)」ですが、これは「製塩用のかまど」の意味です。
かつて日本の各地の砂浜でこのような塩竈(しおがま)が見られたそうです。
ですから「塩釜」の表記にしてしまうと、「塩のお釜」の意味になって、「塩を焼く竃(かまど)の設備の意味を失ってしまうわけです。
こういう難しい文字の表記は、市民の方々は不便なところもあるのかもしれませんが、「塩竈」の歴史を大切にして残してくれたのですね。
私もこのような難しい市名に直面して、初めていろいろ調べた次第でした(大汗)
福岡の太宰府には「宝満宮竈門(かまど)神社」があります。
宝満山の麓に、後からできた菅原道真を祭る太宰府天満宮が有名になっていますが、もともと太宰府鎮護の守護神は「宝満宮竈門(かまど)神社」です。
神武天皇の母の玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祭り、筑紫の方々の信仰は厚く、奈良の三笠山のように、多くの人たちが登っていました。
百人一首に塩を焼く歌があります。
来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
権中納言定家
(いくら待ってもあの人は訪ねて来ません。
夕暮れ時に、松帆の浦で焼かれている藻塩のように、私の身もこがれる思いです。)
松帆の浦は、兵庫県淡路島の北端の海岸で「待つ」という言葉を兼ねて、定家が取り出した地名です。
宮廷人でも、淡路島の製塩が、自然に浮かんで歌の素材になるようです。
海岸での「藻塩焼(もしおやき)」は、それほど身近に馴染んでいたのでしょう。
百人一首の撰者の藤原定家が、製塩を取り入れて歌を読んでいるのも、改めて趣き深く感じます。
破格の国家祭祀料を賜った鹽竈神社
鹽竈神社は『延喜式』に記されていない、とお話しましたが、『延喜式』以前の『弘仁式』の「主税式(地方財政の支出入の管理の次第)」に、鹽竈神社の祭祀料の記載があります。
それも「1万束」が計上されていて、祭祀料としては最大級のものとされています。
平安時代初期に国費による祭祀が行われ、別格の大社としての地位を占めていることがわかります。
多賀城の北東3キロ、松島湾を見下ろす高台に鎮座しています。
国府の置かれた多賀城と深いかかわりがあったと考えられています。
多賀城跡
入江は今より深く入り込んで、最奥部に「江尻(えじり)」の地名が残っています。
古代の人々はその入江に船をつけたそうです。
ここから急坂を南へ登ると国府の多賀城の古道が通じて、北の急坂を登ると「七曲坂(ななまがりざか)」が、鹽竈神社への最古の古道として残っています。
七曲坂の古い参道
塩土老翁(しおつちのおきな)も、ここを登ったそうです。
息切れしますが、古代の人たちの様子が偲ばれて心地よいものです。
日本武尊の軍団が入港したのは、松島丘陵が塩竈湾から突き出ている七ヶ浜町の海岸とされています。
武甕槌命の時代から100年以上を経て、ヤマトタケルが東国から海路を北上したとき、目指す拠点集落は鹽竈神社付近でした。
七ヶ浜町には、古くは縄文時代前期から中期の大木囲(だいぎがこい)貝塚・集落跡があって、クジラの骨なども出土する遠洋漁業が行われていました。
一方でイノシシや鹿などの山の狩猟の遺物も出土しています。
東京ドーム4個分の19万平方メートルの広さです。国の指定史跡になっています。
大和朝廷の国作りは、遠隔地への何度かの皇族たちの遠征によって、次第に租税制度になじんで、統治機構に組み入れられたと考えています。
6~8世紀頃のたった一度の遠征で、国家統一がなされたのではないです。
『古事記』『日本書紀』はそのように伝えていません。
饒速日命(にぎはやひのみこと)、武甕槌命と経津主命、神武天皇、四道将軍、豊城入彦命、景行天皇と日本武尊……と、有力な人々が次々と東方へ遠征したことが記されます。
武力によっていったんは服従して、税も納めたでしょう。
しかし本隊が帰国して、手薄になると、定期的に税を納める、という風習になじまなかったのではないでしょうか。