こんにちは!yurinです。
邪馬台国時代、都はこのように遷都されていたようです。
伊奘諾尊時代 | 福岡県飯塚市・直方市 |
天照大神(卑弥呼)時代 | 福岡県朝倉市 |
天の岩戸の後の天照大神(台与)&高皇産霊尊 | 福岡県嘉麻市 |
天忍穂耳尊・万豊幡秋津姫(台与)の時代 | 福岡県田川市・大分県行橋市・宇佐市 |
この記事は、その中の伊奘諾尊が最終的に留まられた直方市のお話です。
目次
直方市の多賀神社は『古事記』『日本書紀』ゆかりの地か?
『古事記』には
伊邪那岐(いざなき)の大神は、淡海(あわうみ)の多賀にお鎮まりになられた
とあります。
飯塚市から遠賀川を下ると、直方市になります。
遠賀川は英彦山(ひこさん)(1199m)と馬見(うまみ)山(978m)を源流とします。
英彦山(ひこさん)方面から流れて来た彦山(ひこさん)川と、直方(のうかた)市で合流します。
その合流点の四方を見渡す小高い丘の上に多賀神社が鎮座します。
多賀神社では伊奘諾尊(いざなきのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこ)を祭ります。
多賀神社の鎮座する直方(のうかた)は、大和朝廷の古い氏族の「額田(ぬかた)氏」を想起させる地名です。(のうかた⇒ぬかた)
額田王(ぬかたのおおきみ)が有名ですが、大和・近江・尾張などにも「ぬかた」の地名がみられます。
直方市付近は、古代に遠賀湾が深く入り込んで、淡水海水が流入し、多くの貝塚が残されています。
まさに「淡海(あわうみ、おうみ)の多賀」といえるポジションです。
また『日本書紀』では
伊奘諾尊は、日少宮(ひのわかみや)にお留まりになられた
とあります。
この付近には、日若(ひわか)の里の伝承地があり、多賀神社に伝わった日若謡(ひわかうた)が、次第に大衆化された日若踊りもあります。
天の岩戸や禊と関係ある?オガタマノキ
多賀神社は、遠賀川と彦山川の合流点にあって、京都の下鴨神社のポジションを想起させる神社です。
今は、社地の外の公園になっていますが、県の天然記念物に指定されているオガタマノキがあります。
オガタマは、「招(お)く+魂(たま)」の意味で、神々の降臨を招く依り代です。
モクレン科の常緑高木で、紫を帯びた白色の花が咲き、甘い芳香がします。
木の実が裂けて房状に実るさまが、神楽鈴(巫女鈴)の原型になったとされています。
このオガタマノキの実をもって、天の岩戸の前で舞った、という説もあります。
宮崎県西臼杵郡高千穂町のシンボルツリーとして、町の木になっています。
明るい緑の葉が美しく、近年は小さく育ててガーデニングの樹木にもなっています。
愛知県常滑市の多賀神社では、オガタマノキが60本以上もある神社の森があります。
県の天然記念物に指定されています。
宮崎市の小戸神社も、イザナキと禊(みそぎ)のゆかりの神社とされ、オガタマノキがご神木になっています。
樹肌がモチノキに似ています。
伊奘諾尊(いざなきのみこと)が、禊祓(みそぎはらい)したのが阿波岐原(あわぎはら)でした。
その「アワギ」が橿(かし)の木とモチノキの説があるのですが、このオガタマノキも、モチノキに似ているところがあるので、禊(みそぎ)と関係があるのかもしれません。
何よりも花の芳香のかぐわしさは格別です~♪
北部九州の立花山山麓の禊(みそぎ)が、伊奘諾尊(いざなきのみこと)の逸話とともに、各地へ広がったのでしょう。
多賀神社~イザナキ~オガタマノキ
はゆかりが深そうです。
伊奘諾尊が最終的に留った地
これほどの神社でありながら、実は創建年代は不詳で、平安時代にはあったとされながら、式内社ではありません。
多賀神社といえば、滋賀県犬上郡多賀の多賀大社が有名です。
饒速日尊(にぎはやひのみこと)か神武天皇の大和への東遷とともに遷座したのでしょうか。
「日少宮(ひのわかみや)」の名称は、京都府宮津市の丹後国一宮の籠神社の磐座(いわくら)の名称になっています。
他に兵庫県淡路島の伊奘諾神宮、静岡県熱海市の多賀神社などにもあります。
大和朝廷の東遷によって、後の時代に祭られたものではないかとみられます。
直方市の多賀神社では、正式な皇室の祭祀はなくなっていたものの「日若謡(ひわかうた)」からは、伊奘諾尊(いざなきのみこと)への追慕と尊崇の思いが濃厚です。
伊奘諾尊ゆかりの日若(日少)は、里の名称にもなり、地元人々の自然な信仰として崇拝されてきた神社とみられます。
総合的に考えると、飯塚市の日若神社は、伊奘諾尊が拠点とした宮で、直方市の多賀神社は、伊奘諾尊が最終的に留まられた地、といえるのではないでしょうか。
『日本書紀』の「日の少宮(わかみや)」と、『古事記』の「淡海(あわうみ)の多賀」を兼ね備えて伊奘諾尊がお鎮まりになった地としてふさわしい神域です。