四道将軍(しどうしょうぐん)は、このような将軍です。
四道将軍とは?
日本列島の要衝地に派遣された、大和朝廷の基盤を築いた4人の皇族将軍のこと。
今回は、神武天皇の東征以後、日本列島の要衝地に派遣された将軍「四道将軍」についてまとめます。
目次
列島の要衝地に遠征した4人の皇族将軍
『日本書紀』では、第10代崇神天皇の時代に、4人の皇族将軍たちが遠征したことを記しています。
「(崇神天皇)10年秋9月……遠き国の人ども、なお正朔(のり=新暦)を受けず。
これ未(いま)だ王化(きみのおもむけ)に習わざればか。
それ郡卿(まえつきみ)を選びて、四方(よも)に遣(つかわ)して朕(わ)が憲(のり)を知らしめよ」とのたまう。
(「遠方の国の人々は、まだ王化の恩恵を蒙っていない。そこで有力な皇族を派遣して、教化したい」とおおせられた。)
「大彦命をもて北陸(くぬがのみち)に遣(つかわ)す。武渟川別(たけぬなかわわけ)をもて東海(うみつみち)に遣(つかわ)す。
吉備津彦をもて西道(にしのみち)に遣(つかわ)す。丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)をもて丹波(たにわ)に遣(つかわ)す。
『もし教(のり)を受けざる者あらば、すなわち兵(いくさ)を挙(あ)げて、伐(う)て』とのたまう。既(すで)にして共に、印綬(しるし)を授(たま)いて将軍(いくさのきみ)とす」
崇神天皇から、印綬(官職のあかしとなる色の組みひも、あるいは組みひものついた印)を授かり、四方の遠征に出たのとあります。
北陸 → 大彦命(おおびこのみこと)
東海 → 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
吉備 → 吉備津彦命(きびつひこのみこと)
丹波 → 丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)
これらの派遣された将軍たちは、天皇家の皇子、あるいはその御子という皇族でした。
大和朝廷の草創期には、皇族みずから地方に遠征して、各地を平定したのです。
過酷なほどの大任を追った皇子たちでした。
大彦命 → 第8代孝元天皇皇子
武渟川別命 → 大彦命の子
吉備津彦命 → 第7代孝霊天皇の皇子
丹波道主命 → 第9代開化天皇の皇子、彦坐王(ひこいますのみこ)の子
「(崇神天皇)11年……四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)、戎夷(ひな)を平(む)けたる状(かたち)を以(も)て奏す。この年、異俗(あたしくにひと)多く参来(もうき)て、国の内、安寧(やすらか)なり」
四道将軍はそれぞれ大任を果たして、無事に帰還して奏上したことが記さます。
そして国内は安寧であった、と。
箸墓古墳の被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまととひももそひめ)と同じ時代
『日本書紀』では、四道将軍の派遣された後、崇神天皇の祖父の姉妹として、長寿であった、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が亡くなって、箸墓(はしはか)を築いたことが記されています。
邪馬台国畿内説の方々が、「卑弥呼の墓」とする古墳です。
……ですが、日本の文献によれば、この時代には男子の天皇が続いて、「女王」が即位した形跡は一切ありません。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、第7代孝霊天皇の皇女で、神の信託を授かる巫女らしき女性ですが、海外から「女王」といわれるほどの事跡はみられないです。
国内は倭迹迹日百襲姫命の死後、「倭国大乱」を思わせる状況もなく、「安寧」であったと記されています。
中国の文献から考古学遺跡を考察すると「卑弥呼の墓」にみえる箸墓古墳も、日本の古典からは、まったく違く状況で葬られた、天皇家の皇女のお墓です(大汗)
会津で大彦命と武渟川別(たけぬなかわわけ)は再会
『古事記』の記述は、『日本書紀』の少し違っているところ、補っているところがあります。
四道将軍という言葉はなく、時代も崇神天皇の時代にいっせいに派遣されていません。
第7代孝霊天皇の時代に、
「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)と、若建吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)とは、相副(あいたぐ)いて、針間(はりま、播磨)の氷川(ひかわ)の前(さき)に、忌瓮(いわいべ)を据えて、針間を道の口として、吉備国を言向(ことむけ)け和(やわ)したまいき」
と、兄弟二人が派遣されて、吉備を平定したこと、そして時代も少し前のこととしています。
また、派遣された地方と人物名も、
大毘古命(大彦命) → 高志道(こしのみち=越)
建沼河別命(武渟川別) → 東方(ひむがしのかた)十二道(とおあまりふたみち)
日子坐王(彦坐王) → 旦波国(丹波国)
と表現が違っています。
さらに『日本書紀』を補う情報として、『古事記』では
大毘古命(大彦命)は、先の命(みこと)のまにまに、高志(こし)の国にまかり行きき。
ここに東の方より遣(つか)わさえし建沼河別(たけぬなかわわけ、武渟川別)と、その父大毘古と共に、相津(あいず)に往(ゆ)き遇(あ)いき。
かれ、其地(そこ)を相津(会津)という。
とあります。
大彦命と武渟川別(たけぬなかわわけ)は、東北地方の「会津」の地で、見事に再会することができたのでした(大拍手)!
福島県の会津若松市には、
また大彦命と武渟川(建沼河)別命」ゆかりの、
大彦命は信濃川をくだり、阿賀野川を遡り、
実は川中島に、「會津比売(あいづひめ)神社」があります。
一方、福島県の会津磐梯山の麓に、『佐良志奈(さらしな)』
佐良志奈神社と磐梯山
時代を追って遠征を繰り返して、大和朝廷は築かれた
このように『日本書紀』『古事記』で、少しずつ相違があるところにこそ、真実味があります。
おそらくは『古事記』のように、皇族たちが地方へ遠征した時代は、誤差があったのでしょう。
そして派遣された皇族は、その地にとどまり、そこで生まれた親子父子2代にわたって、開拓統治に努めたものとみられます。
そして本人あるいは子孫が畿内に戻り、「将軍」に追認されて、朝廷に出仕することもあったとみられます。
それについて地方の伝承からも、崇神天皇の時代に一斉に派遣されたのではないように、みられるのです。
そしてそれぞれの地で開拓統治する中で、崇神天皇の時代に一斉に「将軍」の号と印綬が授けられたのかもしれません。
この後、景行天皇や日本武尊の遠征もあります。
大和朝廷は1回の遠征によって、地方の統治を完了したのではなく、何度かの遠征を繰り返すことで、日本列島を大和朝廷の租税システムと政権機構にくみいれていった、と考えます。
『古事記』『日本書紀』に書いてあるとおりだと思います。
さらにいえば、四道将軍以前にも、饒速日命(にぎはやひのみこと)と三十二神といわれる人々、神武天皇の時代には、物部氏の祖の宇摩志麻治命(うましまちのみこと)や尾張氏の祖の天香語山命(あまのかごやまのみこと)、という人々が、列島の平定に赴いたことが、『先代旧事本紀』に記されています。